●今更という感じだが『Self-Reference ENGINE』(円城塔)を読み始めた。半分ほど(第一部まで)読んだ。面白い。この小説の面白さは何より「分かり易い」ところだと思う。普通、小説を「分かり易い」と評することは「分かり易過ぎるよね」というような否定的な(物足りない的な)ニュアンスになるけど、これはその「分かり易さ」こそが面白い。とてもややこしい難解な概念を、分かり易いたとえ話で説明してくれる優しくて親切な先生の講義を聴いているような面白さ(ただ、その概念そのものはまったく「人に優しい」ものではないけど)。それはおそらく、書き手にとってこの小説の隅から隅までが曖昧なところなくあらかじめクリアに把握されているということなのだろうと思う。分かり易い=混乱が無い=透明(クリア)みたいな感じ。多分、読者にとってこの小説の面白さは、今まで知らなかったある概念の形を(そして配置を)「理解する」ことから生まれる。そして、この小説の面白さはあくまで抽象的な概念(そして概念と概念の「配置」)にあるので、小説としての細部(具体性)はあまり豊かではない方がいい。細部があまりに強く豊かであると、「概念」をはみ出してしまい「分かり易さ(明晰さ)」が損なわれてしまうから(ただ、この小説で提出される概念とは、細部=具体性が概念=法則を書き換えてしまうというような種類のものである気もするけど)。あるいは、細部が充実しているとそちらに気を取られ、読者の「頭の容量」を超えてしまい、概念を理解しようとするために働く部分が足りなくなってしまうから。そして、ある種の薄っぺらさが、この小説の非人間的な感触を際立たせもして、人間の外の風景の広がりを感じさせる(でも、それって本当に「人間の外」なの?、と問いが再び人間のもとに戻される感じもある、でもそれは、さらに翻って、人間の本質的な非人間性みたいな感触にもなる)。
●まだ半分しか読んでないけど、この小説はおそらくは、全体としてある複雑な概念(の配置)のイラストレーションのようになっているのだと思う。具体的な細部はあくまで関係を表現するために仮に置かれた「x」や「y」としてある。だから、ここには謎や誘惑はなく(だからパズルですらなく)、読者に求められるのは、出来る限り正確なその「理解」ということになるのだと思う。そのために出来る限り分かり易く(クリアに)書くことが努められているように思われる。(共感や驚愕などではなく)「正確な理解」を求める小説というのは、小説としてはすごく特異なあり方なのだと思う。
●こんなに面白いならもっと前に読めばよかったと思うかといえばそうではない。おそらく、今、読んだから面白いと思えるのであって、二年くらい前だったらこの感じを上手く掴めず、なんか痩せた小説だなあと思ってすませてしまったように思う(普通に、小説を読むモードで読んだら、この細部の貧しさを受け入れ難いと感じてしまうだろう)。ここ最近になって、清水高志、ラトゥール、中沢新一、レヴィ=ストロース、西川アサキなどを読むことによって出来た下地によって、はじめてここに「何が書かれているのか(あるいは、何故こういうことが書かれるのか)」が腑に落ちることが出来るようになったのだと思う。ようやくぼくも、円城塔を「読む資格がある」というところに来たのではないか。