福永信のABCDたちは皆、消滅への指向、あるいは出現への躊躇、というような、「露わな存在(というより、存在への定着)」への抵抗という傾向性をもっている。そこに、『星座から見た地球』という一見きわめてかわいらしい話たちが、その裏側に、不穏さというか、ある暗い感触を宿しているように感じられる理由があるように思う。そこにこそこの小説のリアリティがある気がする。しかしそれは、福永信ではなく、たんにそれをそう読む(読もうとする)ぼく自身の有り様の反映でしかないのかもしれないのだが。
●人はまず、自分の外側から来る刺激によってよりも、内側からくる刺激によって傷つけられる。外側からの刺激は防衛できても、内側からの刺激は防衛出来ない。フロイトはこの内側からの刺激(原初的な拍動)のことを欲動と名付ける。だから人はまず最初に、一次過程として、抑圧によってこの欲動を無意識へと翻訳し、把捉しなければならない。無意識は、欲動そのものではないが、欲動の流れを翻訳する(代替する)ものとなる。このような一次過程(無意識による欲動の把捉−翻訳、加工)が成立しなければ、そもそも快感原則が発動しない−主体化できない(樫村晴香の言う、強度−身体のオーダーにあたるものが欲動であり、差異−意味のオーダーにあたるものが無意識であろう)。欲動は、快感原則(意識−無意識の構造)に先立つ。フロイトは、人の心的構造の根本原理であるはずの快感原則に反して、人がしばしば不快であるもの−記憶(不快を媒介として遅延した快感を得ようとするのではなく、どのようにしても不快そのものでしかないもの)を反復的に召還してしまうことの理由を、とりあえずそのような欲動の存在によって説明しようとした(「快感原則の彼岸」)。反復強迫そのものは欲動の動きではなく、それを抑圧−翻訳した無意識のはたらきであるのだが。ここでは、最初にたてられた生の欲動と死の欲動という二項対立の図式は既に崩れていて、欲動そのものには区別はなく、それが人−主体にとってどのように作用するのかという違いしかなくなっているかのようだ。欲動とは、生命を可能にするものであると同時に、生命を崩壊させるものでもある、ある力のことである(正確には、この世界そのものの拍動が、人の身体上に表現−発現されたものが欲動である、と言うべきなのか、死の欲動は「力」ですらないような静かなもの、欲動の静的な側面としても捉えられている)。だから欲動は意味以前にあり、意味とは何の関係もない(意味とは、主体−生命に対して発生するものだから)。よって、意味−差異−分節によってそれを完全に制御することは出来ない。
人にとって、最も原初的で、最も強い外傷が「存在すること(生まれること)」そのものであるというのは、このような意味(内的な?外傷)においてであろう。だからそれを、簡単に心理的=具体的な出来事に翻訳すべきではないだろう。わたしは、こういう出来事、こういう酷い目にあったから、それが外傷となっている、とかいうようなことではないのだ。それは具体的な経験以前の、存在(個体発生)の条件のようなものとしてあるはず。だからこそ、人が最初に刻みつけられた内的な外傷(欲動の無意識による把捉)という印付けを、そう簡単に(知的な操作によって)は還元−解消してしまうことは出来ないはず(存在における抑圧の不可避)。だからこそ、繰り返しその場に回帰する。回帰するのは、それに把捉−束縛されているからということなのだが、それだけでなく、繰り返し回帰することでそれを少しずつ作り替え、そこから自由になるためでもあるはず。
(この部分は、小説を読んでいて思ったことを書いたものですが、小説について書いたというわけではありません。)