03/12/02

●描く前に視覚的にイメージすることは出来ず、ただ描いてゆく過程の(技術的なことも含めた)「足取り」のようなものがおぼろげに掴めているだけで、それがどのような結果となるのかは「描いて」みないと何とも言えないような、「描くこと」の積み重ねによってしか構築出来ない画面というのが確かにあって、そのようにして出来上がった画面からしか感じられないある感覚というものがあり、そのような感覚をもっている作品がとりあえずぼくがつくりたい絵画だというふうに考えている。

●例えばセザンヌの作品においては「構図」など何の意味もない。イメージがたちあがってくることと、フレームが出来上がってくることが同時に進行するセザンヌの絵画にとって、「構図」という概念はおそらく成立しないからだ。(セザンヌの作品においては、たんに画面上のあらゆる形態、タッチ、色彩が有機的に絡み合っているというだけではなく、形態やタッチや色彩と、それをのせる基底的な場、それを浮かび上がらせるフレームの三者が同時にたちあがり、同時に動き変化し進展するという風に、不可分に絡み合っているのだ。)「セザンヌの構図」は、出来上がった作品にトレーシングペーパーを被せて輪郭線をなぞることではじめて現れる。しかしそれはセザンヌの作品とは何の関係もないものだろう。セザンヌの作品は、画面上の効果=見えているものだけを問題にしてもダメで、見えているということを成立させている見えないもの(だかこれは「真理」とかいうようなことではない)が同時に問題とされている。

●去年くらいからようやく、そのような「描くことによってしか構築できないもの」によって作品をつくることが多少は出来るようになってきたという感触がある。つまりそれは、手を入れること(描くこと)が画面上の効果に対してだけはたらきかけるのではなく、絵の具をおいてゆくことが、その効果の舞台となる基底的な場や、その効果を成立させるフレームそのものに対しても同時にはたらきかけ、それらを動かし、形成してゆくような描き方だと言える。勿論、絵画というのは描くことによってしか生まれないわけで、それ以前の作品だってそうしてつくってきたつもりなのだけど、それでも途中でどこかズルして、最終的に「見えている結果(既にあるフレーム)」に落とし込んでいったりしてしまうというところが多分にあった。だが、「描くことによってしか構築できないもの」によって作品をつくれるようになってきたということが、そのまま作品が良くなるとか質が高くなるということに直結するわけではないのは当然で(それはまた別の話で)、むしろ、見栄えが悪くなったり、あるいは見えづらくなったり、弱く見えたりしているのではないかという不安が増してさえいる。(まあ、それ以前に、今どきそのような描き方の絵画に意味なんかあるのか、という話もあるのだけど。)とは言え、分かり難いとか、詰まらないとか、意味がないとか、完成度が低いとかいうことは、観てくれる人が勝手に判断すれば良いことで、ぼくとしてはそんなことは知ったこっちゃない。「知ったこっちゃない」というのは、このような「感触」はあくまで作品をつくるぼくの(しばしば勘違いでさえある)勝手な実感であって、そのような実感をもとにしてつくられた作品が、実際にどのようなものであるか、何を「見える」ようにしているのか(あるいは何も見えないか)は、他者の判断に委ねるしかないという、作品をつくる時の「原理的なことがら」のことだ。