(一昨日からのつづき)
●七条の駅から歩いて京都国立博物館へ。博物館の塀沿いに落ちていた落葉を何枚か拾って、文庫本に挟む。
●京都国立博物館には、有名な狩野元信の四季花鳥図やバルトの本に書かれている(とはいっても『表徴の帝国』は読んでいないのだけど)宝誌和尚立像などが展示されており、ああ、これが「実物」かぁ、という感じなのだが、ぼくが魅了されたのは、特に作者が記されているわけではない、十二、三世紀頃の木彫のいくつかだった。ぼくはこれまで、日本の古い木彫の「実物」をちゃんと観たことがなかったのだが、こんなに面白いものなのかと驚いた。最初は、それらの非常にやわらかく美しいシルエットに惹かれているのだと思っていたのだが、時間をかけてじっくりと見ているうちに、素晴らしいのはシルエットそのものというよりも、シルエット(輪郭的に把握出来る形態)をシルエットとしてすんなりとは把握させないような、「形を散らす」ように組織された、きわめて繊細な線的なものの流れと重なりなのだと気付いた。(写真などで観ると、シルエットが強調されている撮り方がされているせいか、どうしてもシルエットばかりを観てしまうことになるのだけど。)形を散らす、というのはおそらく、木彫のもととなる木の塊の、重さや量感を「散らす」ということなのだろうと思う。いわゆる「大仏」のような姿勢の安定した三角形をつくっている大日如来の座像でも、地面にどっしりと居座る感じではなく、上へ向けて「ぬっ」と伸び上がるような(まさに日の出のような)動きを感じさせる。(昔、大仏の頭が大きいのは、下から見上げた時にちょうどバランスよく見えるようにするためなのだ、という俗説を吹き込まれたりしたものだが、そんなこと大嘘であることがよく分かる。下半身が貧弱で、頭の大きいファルムは、重心が散らされ、よって重力や重さを感じさせずに、上昇するような運動を感じさせるためのファルムなのだ。)あるいは、蓮の花をかたどった幾重にも重ねられている台座なども、装飾的なものではなくて、それによって重力から切り離された浮遊感をもたせるための(つまり全体としての量感や重さを感じさせなくするための)ものなのだ。立像でも、すぐれたものは、ひとつの仏像を、いくつもの軽やかな線的表現の重なりとして立体化していて、ひとつの輪郭(ひとつの塊)として目が捉えないようにつくりあげてある。優れた仏像は、全体として静謐だったりダイナミックだったりする「ひとつの表情」を実現していながら、その「ひとつの表情」が、いくつもの異なる線的なものたちの流れの重なりによって実現されているため、輪郭や量感として簡単に把握できないようになっている。複数の運動の複雑な混合によって、その隙間から、かげろうのように「ひとつの表情」が立ち上がってくる。(だから、二個で一対の立像なども、それぞれのキャラクターを出しつつも、互いの個体の間で、「軽やかな線的表現=運動」が複雑に、そして自由に対応し合っていて、とても複雑な運動をつくりだしていて、とても面白い。)ここでは思いのほか長居することになった。
●地図をみると、国立博物館から京都駅までは一本の道路をずっと行けばよく、歩けそうな距離だったので歩くことにした。京都駅に近づくと、建物の間から京都タワーがぬっと頭を出しているのが見えた。
(つづく)