⚫︎竹中優子「ダンス」(「新潮」11月号所収)。
とてもよかった。書き出しから最後まで、滞ることなく、一定の充実を保ったまま、 滑らかに流れていくような文章。淡々とすすみ、特に大きく盛り上がるようなところはないが、逆に言えば、すべての場面が等しく面白い。
一人称の話者=主人公(女性)と、職場の女性の先輩、下村さんとの交流が描かれる。主人公の「どこにも馴染めない」という性質(世界と触れる感触・距離感)が小説の基本的なトー ンをつくり、そんな彼女の目から、「頼りがいのあるお姉さん」だったはずの下村さんが失恋によってちょっと(かなり)おかしくなっている様が描出される。下村さんはあきらかに「おかしく」なっているのだが、それが、いわゆる「失恋でおかしくなる」紋切り型とはまったくちがっているというところが面白い(それが下村さんという 人物のリアリティとなり、この小説の固有性となる)わけだが、それだけでなく、職場が、 下村さんのおかしさ(度重なる無断欠勤など)を、厳しく叱責するでもなく、腫れ物に触るように気をつかうでもなく、きわめて鈍感な感じで、信じがたいほど適当に(鷹揚に)受け容れてしまっているという基本設定が、かなりユニークではないかと思った。
だが、職場の(「山羊」のような係長の)、信じがたい鈍感性受容力の高さのしわ寄せを直接食らっているのが主人公で、故に彼女は冒頭から「往復ビンタをしてやろう」と怒っている。しかしこの怒りは、無断欠勤をつづける下村さんへの怒りなのか、下村さんの欠勤分のしわ寄せをなんとなく(なし崩し的に)自分一人に負わせてくる職場の空気(あるいは係長)への怒りなのか、あるいは、下村さんを理不尽に裏切った「かまぼこズ」への怒りなのか、焦点が定まらないことで煮え切らず(たとえば、 下村さんに対して怒っている感情が、「かまぼこズ」の様子が目に入ることで同情のようなものに変質して、怒り切れない、など)、そんな、「怒り」が失調してしまう、グズグズの感じのまま、巻き込まれるように下村さんとの関係が深まっていく。このような展開が巧みだと思った。
また、「空港のロビー」「野球場」「お風呂場」という、特定の空間にまつわるエピソードが、 鮮やかに際立つという感じではないが、地味に深く響く。特に、太郎という人物によって語られる「他人の風呂を借りに来る老夫婦」のエピソードは、これによってこの小説が引き締まると言えるような、重要なエピソードだろう。
(唐突なように登場する、野坂昭如が大島渚を殴る話も、それまでやや抽象的だった(あまり生々しいものではなかった)「ビンタ」 という語に、ふっと具体的な運動性を持ち込んでいてくる感じであざやかだと思う。)
主人公の視点から「下村さん」の人物像がずっと書かれているのだが、終盤になって、長い時間経過のあと、ふと、主人公の関心が自分自身へと折り返ってくるところで、この小説の語りは、下村さんについての語りであると同時に、それだけでなく、彼女の姿から折り返された主人公自身についての語りでもあったのだ、と気づかされる。この転換も見事だと思った。
「三十代は人を別人にする」というキラーフレーズも、なかなか鮮やか。
⚫︎「(現在という文脈の中で)評価されてやろう」というような下心的野心とはほとんど無縁に書かれているような感触であるのも良い。
(追記。これは書かなくてもいいことかもしれないが…。選考委員の一人が、主人公・話者である「私」と結婚することになる「太郎」という登場人物が「私」に対して《真面目》さを見出し、それを指摘する場面について、説明的だから無い方がいいと選評に書いているが、これは明らかな間違いだと思う。ここで「太郎」が口にする《真面目なところ》という評価は、「私」にとっては他者からの意外な評価であり、また半ば納得するが半ば受け入れがたい(受け入れたくない)ことでもあって、それに対して《私は私が面倒くさいよ》という、半分反論であるような答えも含めて「対話」が成立している。それに何より、「太郎」が「私」のなかに見出した《真面目》さこそが、二人の結婚生活を窮屈なものにしたのではないかという内省が終盤に書かれている。つまり、ここで見出される《真面目》さは、「私」の性質のたんなる縮約的、外的、自己言及的説明ではあり得ず、馴染めなさ、面倒臭さ、窮屈さ、といった、「私」にとって、自覚的であるくらいでは自分自身でもどうすることもできない、自分でももてあまし気味の「自分のありよう」についての「(内省や主観からは決して出てこない、ざらっとした異質感を持った、自己評価とは齟齬のある)他者からの評価の言葉」であろう。この言葉が他者(太郎)からもたらされるという出来事は、この小説にとって必要不可欠な要素であるはずだと思う。)