2024-10-08

⚫︎町屋良平「小説の死後―(にも書かれる散文のために)―「批評」しやすい吉井磨弥、「批評」しにくい青木淳悟」(「群像」11月号)。とても面白かった。「小説」について書かれた文章がこんなに面白いのはとても稀なことだ。

「批評」や「人文系の本」を読んでいて常にストレスになるのは、「前提にしちゃってるけどそれって自明ではないよね」とか「その要約・まとめに納得できないんだけど」とか「なんでそう言い切れるのかわからないんだけど」とか「その「社会的な(慣習的な)思い込み」をそのまま採用していいの ?」とか、そういう疑問や引っ掛かりが次々と出てきて、その都度立ち止まって「いや、とりあえず、これはこれとして飲み込んで(これを受け入れられると仮定して)次の展開を見ていこう」と、何度も小さな妥協と気の取り直しを繰り返さないと読み進められないことが多いところだが(これが多すぎるとまったく先に進めなくなる)、まず、この文章にはそれがほぼなかった。それは、書かれていることすべてに同意できるということではない。「うーん、それはどうなのだろう」と思うところはあるが、しかし「え、その前提はどこから出てきたの ?」というところがない。そしてこの文章は、このことそのものについて的確に書いている。

《エンターテイメントと呼ばれる小説の多くが多少なりとも既存の、大人の社会システムを承認していないと楽しめない一方で、文学では時折その限りではない作品と出会える。一般的に「わからない」と言われる小説世界の取っつきづらさは実は、突き詰めて考えれば子どものような意識を大人の語彙によって召喚するような作品の場合がある。》

《おもえば逆説的な言い方になってしまうが、分かりやすい一般性において「難解」な青木作品はじつはなるべく読者を選別しないという姿勢によってその「難解」さが成り立っており、逆に「わかりやすく書く」という一般論において多くの書き手がじつはまず読者を選んでいる。》

《文章が分かりやすいというのはたいてい、せいぜい十二~十七歳前後にも理解できる社会性において分かりやすい言語の範疇という程度の条件に過ぎず、しかもそれは書き手が勝手に読者(この読者のなかには書き手も含まれる)の能力を想定し、宛てがうという過程を経る。》

このような「分かりやすさ」の中に潜んでいる「「社会性」の分かりにくさ」にいちいち引っかかってしまうぼくにとって、「批評文」を読むことはとても疲れることだが、青木淳悟を読むことは疲れることではない(さすがに「哲学」の多くはそこらへんがちゃんとしているので、あまり疲れない)。そしてこの「小説の死後…」も疲れない。

「分かりやすく」書こうとすることでかえって分かりにくくなるというか、「分かったようで分からないようなぼんやりした感じ」になるのは、「分かりやすさ」の中になんの断りもなく社会性(《大人の社会システム》)を当然の前提のように混ぜ込んでくるからで、しかしこちらとしては、いやいやその「社会性」を前提とすることが疑わしいからこそ、わざわざ文を書いたり読んだりして考えようとしてるんですけど…、となってしまう。ある文章の中で前提とされている社会性に対して、そもそもその前提が成り立っていないと思うのだけど…、と思いつつ、しかしこの文章はそれが成り立つことが前提として組み立てられているから、こちらとしてはとりあえず「その前提を受け入れた体」を仮構して文に臨まなければならず、その文章が読者として設定している「社会性の度合い」を測ることが、文の内容を読み取ろうとする前にまず必要になり、それがめんどくさいしストレスになるのだが、《分かりやすい一般性において「難解」な青木作品はじつはなるべく読者を選別しないという姿勢によってその「難解」さが成り立って》いるからこそ、そんなことを考えずにただ読めばいいので、楽しく読める。「小説の死後…」も同様。

⚫︎《私が小説を良いとか、悪いとか思うときに、多くの場合この小説は「世界として」「人生として」「人体として」矮小化されている、操作されすぎていると感じることによる。だからこの文章においても小説批評として「世界」「人生」「人体」の三つの比喩は頻出する。これらを矮小化する「小説」はつまらないという価値観を強調する。極論を言えば「小説」だけを面白くしようとすると登場人物の「人生」「人体」「世界」は矮小化される。》

《この本文は小説を「世界」「人生」「人体」を比喩とすることについて、これからも判断することの是非を占う役割も果たすだろう。つまり、私自身が多少はこの価値観について疑っているということだ。》

小説が、「小説のため」に(小説の都合で)「現実」をねじ曲げることなく、「世界」「人生」「人体」を矮小化していないかということが、小説の良し悪しを判断する基準としてあることが示され、しかしその基準は絶対的なものではなく、この文章が書き継がれることを通して、基準の妥当性が試されていくことになるだろう、と。ここで言われる、「世界」「人生」「人体」という現実を矮小化しないという価値感と、前述した《大人の社会システムを承認していないと楽しめない》というわけではない小説への傾倒とは密接に繋がっているだろう。多くの人にとって「現実」という語から想起されるのは「大人の社会システム」であろう。しかしそれは、共有された(強制された)虚構であり、現実としての「世界」「人生」「人体」はそこには収まらない。いやそもそも「社会システム=共有された(強制された)虚構」がどの程度「共有されている(前提とされている)」のかさえ本当は分からない。前提と見えるものは《ただ似たもの、慣れたもの》にすぎず実は前提とされない。

《人は大人でさえ自身の世界を言葉で十全に再構築できない。ただ似たもの、慣れたものを集めて世界を(仮に)措定しているだけだ。それはなにかを選んでいるように見せて、じつはむしろ可能性を捨てている。絶えず自らに馴染まない可能性を選ばないことにすぎない。》

《小説はたやすくは書けないことばかりあるし、まだ書かれていないものばかりある、それなのにもう書かれているものばかりを書かされてしまう。そのほうが楽で小説っぽい営みだからだ。》

《完成度、面白さ、「新しさ」と簡単に断定的に名指せるもの、それらを評価するときにはかならずこの陥穽はある。小説家はこの陥穽に嵌まらないように小説を読むことを使命とする。》

⚫︎小説の《完成度、面白さ、「新しさ」と簡単に断定的に名指せるもの》こそを警戒しなければならないし、その判断は常に危うい。しかしだからこそ「批評」が必要だとする部分の理屈がとても面白い。こんなふうに書けるのはすごいことだ。

《批評とは、けっきょく読み手がその作品を「面白い」「面白くない」と価値判断したからこそ生まれる、事後的で捕捉的な思考にすぎないのだろうか。しかしだからこそその「面白い」「面白くない」の価値判断の果てしなさ、たよりなさ、多様性に気が狂うようなことに、歯止めが利く側面があると思う。というのも、文芸誌に載った小説の「面白」さには、笑いの要素を含めたエンターテイメント性における「面白」さ、芸術、学問の観点からみた「新しさ」に興奮するような「面白」さ、著者の企図したことが読む者の身体によって組み立てられまさにいま成し遂げられているという実感(しつこいようだがこれこそを私は文体と呼ぶ)がもたらす「面白」さ、その他の雑駁な要素がたぶん混在し、読み手がうまく感受しないとそれがどのような「面白」さなのか、判断しづらい。あなたはなぜその小説を「面白い」「面白くない」と思ったのか。その言い訳のようなことを、ぐだぐだずっと聞いていたいという気持ちが私を批評に向かわせるが、それはひとりで多様な「オモシロ」に向き合っていたら気が狂いそうだからだ。沢山の小説を読み、その上で素朴に「面白くない」とだけ言えるほどのある種の健康さ、自信が私にはない。小説の「面白」さの多彩さにつねに気が狂いそうである。だから自作より他者によって書かれた作品の批評につねに飢えている。》

ここで町屋は、つねに「他者によって書かれた批評」を欲していると書く。これは、小説が「複数の人によって読まれる」ことの意味ということだろうと思う。小説を「私が読む」だけでは足りない。ある人が読み、別の人が読み、またそれとは別の人が読む。それらの「読み」の上に、さらにまた「私が読む」。町屋はまた、読者が著者よりも多いことの意味についても書いている。それは、著者の特権性を言っているのではなく、読むことの共同性において小説が(一人の著者によって)書かれることを示しているのだろう。共有された社会システムを前提とするのではなく、一人によって書かれたものが、書かれた後に、複数の別の身体によって読まれ、共有(検討)される。その上で、また読まれたり、書かれたりする。それが、ある個別の身体が書き、それを「複数の別の身体」が読むということの意味だろう。

《書き手として、自分が意図したことすべてが自分に「わかる」ものである場合私は自作をうまくいっていないものと判断する。というより、厳密にいうと「わかったものとして、わかったふりをして書く」こと自体はそう難しいものではないから、時にはそれを目指すこともあるがそれは思考の幅を狭めている。多くの小説はそうなっているが。読者は著者が書いたことをそのまま受け入れることのほうが重要ではるかに難しく、それか必ずしも著者が意図したことを受け取ることとイコールではなく、時には著者が意図しないことを受け取ることのほうが重要である。そうでないと読者が著者よりも少なくとも数が多く複数いることの意義が薄れる。》

⚫︎少し前のところで、《著者の企図したことが読む者の身体によって組み立てられまさにいま成し遂げられているという実感(しつこいようだがこれこそを私は文体と呼ぶ)がもたらす「面白」さ》という部分を引用した。この文章で町屋は「文体」について独自の見解を示していて、それがとても面白い。

吉井磨弥「ゴルディータは食べて、寝て、働くだけ」(ぼくはこの小説を読んでいない)において、果てしなく太り続ける主人公の食事の場面は、食べたものの列挙と、買った食べ物を示すレシートによってのみ表現され、そこには味覚や嗅覚、内臓感覚といった《語り手の五感描写》が欠けている。五感(知覚)が欠けているが故に、比喩もない、と。

《吉井は「ゴルディータは食べて、寝て、働くだけ」で、語り手の膨大な食量をレシートという記号的情報で読者と共有し、購入したものを胃に収めるさまを非装飾的文章によって食事とする。その食事の身体感覚を読み手の知覚に委ねることで想起されるイメージの力と、レシートという情報そのものの迫力、その双方が相乗効果として果たされるその際に、語り手と読み手の身体の二重性はまったく新しい形で現前する。片方では機能しないかもしれない喚起力が、その二重性によって補完され、より生々しい知覚が現前するのだ。簡素な情報により読み手のイメージが語り手に流入し、語り手の空白や悲哀が読み手のイメージに流入するとき、交換されるその五感・身体感覚こそが私が考える文体である。》

《つまり文学作品では、書き手がそれぞれのなんらかの方策によって、書き手と読み手の身体が交換され、束ねられるような経験をぜひとも必要とする。非常に単純に言ってしまえば、読み手が語り手に「自分のことが書かれているよう」と身体が一致するように工夫された文章的志向こそが文体であり、作品や作家によりその要請されるものはそれぞれ違うものだ。》

ここで「自分のこと」とは、物語レベルでの状況や境遇での共通性のことではなく、感情移入にもとどまらない、身体の経験としての「自分(私の身体)のこと」だ。語り手や登場人物の身体と「読み手」の身体とが、《交換》されるかのように、ある経験が《読む者の身体によって組み立てられまさにいま成し遂げられているという実感》が成り立つための、文章のあり方が「文体」であり、それはその作品が「どのような経験」を生成させようとしているのかで異なる、ということだろう。

ここでは「文体」という語に常識とは異なるとても強い意味が込められている。たんに文の特徴や肌触りに留まるのではなく、読み手の身体感覚を編成し直し、登場人物の身体へのメタモルフォーゼを促すほどの強い作用を生むことが「文体」に求められている。

(もう少し、つづく。)