●必要があって、久々に『ペドロ・パラモ』(フアン・ルルフォ)を読み返し、面白くて読みふけった。
●『ルネサンス 経験の条件』(岡崎乾二郎)より、ブルネレスキのサント・スビリト聖堂について。
《この聖堂に中心がないというわけではない、というより中心は一つに特定されておらず、あらゆるところに対称軸があり、立ち止まるそのつど、その場面を軸に建物全体が鏡像のように反映しあうのが見いだされる。言いかえれば、そのつど、場面は完結し、連続性を絶たれて感じられるが、けれど一方でそこにみられる比例関係の各々は、それが、この聖堂のどこか他処の場面、様々なる場所ですでに出会ったことのあるようなものとして想い起こされる。それが何時どこであったのか、想起の方向は定まらず、そもそも自分が建物の中でどこに向かっているのか、その方向さえもほぼ完全に見失われる。》
●グレアム・ハーマン「唯物論では解決にならない」(「現代思想」2019年1月号)より。
唯物論は、目に見えるいかなる状況も、それを転覆させ驚きをもたらすような深い余剰を含み込んでいるのだということを洞察しているのであって、〔たしかに〕この点において賞賛に値する。しかし、この余剰はけっして形なきものではない。それはつねに形式を有している。そして、どんな水準の形式も、他の水準の形式より実在的であるとは考えられない。まさに以上の点から、わたしたちは唯物論に対してフォーマリズムを擁護しなければならないのだ。それは、(たいていのフォーマリストが考えるように)あたえられた形式の足元にいかなる過剰も存在しないからではなく、過剰それ自体がつねに形式を有しているからだ。》