2025-11-13

⚫︎『脱出の最中』。黒川幸則監督の新作。約40分の小品。11月29日から12月5日までポレポレ東中野で公開される映画を、先取りしてウェブで観せてもらった。

既に独立していた姉は、何年か前に妹の家出(失踪 ? )を母からの電話で知った。その姉のもとに、ある残業終わりの終電も既にない真夜中に妹から唐突な着信がある。そして、妹は姉を海へ誘う。姉は(おそらく仕事を全て投げ出して)妹の誘いに乗っかる。

生と死の境界を具体的な場面として表象するとしたら、川(三途の川)よりも海岸がふさわしいように思う。海辺の街、あるいは海岸は、あらゆるコミュニティ、あらゆる領土の「外」、あるいはその「間」にある、どこでもない場所のようにみえる。海辺の街も、そこに住む人には自分が属するコミュニティであり領土であるとしても、他からそこへ訪れる人にとってそこは、あらゆる領域に属さない場序のようにして立ち上がる。あるいは地元の人にとってさえ、海岸(砂浜)は、地元でもない、どこでもない場所たり得るのではないか。船に乗って海に出てしまえば、それはまた別の世界であり、別の領域になる。だが、堤防と海とに挟まれた、反復し持続する波音で満たされた狭くて細長い領域である砂浜は、社会の裂け目から宇宙が露出しているような場所ではないか。

姉は、家から出て都会に仕事を見つける。家に残された妹は、姉に遅れてそこから出る。姉は、家からは出られたが、別の何かに絡め取られている。残された妹は、家から消え、行方知れずになり、どこにも属さないものになる。存在しているかどうかもわからない。そんな妹が、疲弊し「無」になりかけている姉の元に不意に声として現れ、姉を「村」から外へ連れ出そうとする。そのようにして二人は海辺で再会する。

映画は、高台から海へとくだる経路を示すように、遮蔽物の間から海が覗き見えるいくつかのフィックスショットから始まる。この海辺の傾斜地は、社会と海(その外)とを繋ぐ中間地帯のような領域であり、姉を呼び寄せようとする妹は、とりあえずここに居場所を確保しているようだ。画面の外から、海へと導く妹と導かれる姉との対話が聞こえてくる。ゆったりとした速度で着陸するヘリコプターとともに、映画の視点も海辺に降り立つ。

この映画はまず、声=言葉が先行する。未だ姉の到着していない、妹のみが存在している海岸で、時間を先取りするように画面外から姉妹の対話が聞こえてくる。この、映像に対する声=言葉の時間的先行は、逆に、この対話が過去から響いているような感覚をも立ち上げ、「海岸」という時空を常識的な時空から隔たった特別なものにするかのようだ。声=言葉のレイヤーでは、姉と妹が共に高台から海岸に降り立ったかのように映画は始まるが、映像が映し出す海岸に、まずは妹しかいない。妹は海岸で流木を拾い、それを引きずるように砂浜を移動し、高台へと運び上げる。この孤独な作業が一日だけでないことを場面の反復が示す。妹はずっとここにいるのか、それとも、姉に対して数日先行しているだけなのか。

⚫︎「物語」というか出来事の時系列順としては、姉の方が先行して存在している。数年前に母から妹の失踪を知らされていて、日々の仕事に疲弊しているある晩に、姉のところに妹から連絡が入ったという順番(姉→妹)だ。だが、映像のレイヤーでは、妹の存在が先行し、海岸で孤独な作業を続けている妹がまず映し出され、後から姉がやってくる(妹→姉)。そして、声=言葉のレイヤーでは、二人は初めから既に一緒にいる。物語(出来事)としては、妹の失踪→妹から姉への連絡→二人の再会という三段階の過程が語られるが、映像としては、妹が一人で海辺にいる→姉と妹との再会という二段階があり、声=言葉としては再会後の対話が主に示される。

特に重要なのは、姉の視点(姉の語り)からみると「行方不明だった妹がいきなり現れた」のだが、映像としては姉に先行して「妹こそ最初から存在している」という点だろう。

姉は、ずっと行方不明だった妹からのとつぜんの誘いによって、疲弊するほど縛られていた仕事の鎖から逃れる機会を得た。妹も、姉を「村」から脱出させるのが誘いの目的だと言う。つまり姉が妹に救われたという話であるように見える。しかし同時に、妹は(姉がさっさと逃げ出した)「家」に居ることが耐えられずに失踪しており、失踪後の妹の孤独が、姉との再会を必要としていたという側面もあるはずだ。

映画の序盤で妹は、未だ姉の現れる前の海岸で、流木を拾ってはそれを高台へ移動させるという孤独でシーシュポス的な行為を繰り返している。これは失踪後の妹の孤独な姿の表現でもあるだろう(しかしこの孤独は決して「悲惨な孤独」ではなく、彼女は自律的に存在し、それ自体として「充実した孤独」であることも表現されている)。この同じ坂道を、冒頭場面の声=言葉のレイヤーでは、姉と一緒に下っている。画面上では一人だが、言葉においては既に二人である。また、冒頭近くで、砂浜で妹が流木を延々と引きずっているカットがあって、そこにも画面の外から姉妹の対話が聞こえてくる。これらの声=言葉は、映像のレイヤーでこの後に起きる姉との再会の時間的先取りであると同時に、このような対話を「一人でいる妹」が希求しているということでもあるだろう(希求が未来を呼び込んでいる、というような)。妹は、未来を思い出すように、姉との対話を希求している。姉が妹を必要としたように、妹もまた(姉とは違った意味で)姉と会うことを願っている。物語・映像・音声の各レイヤーで語られる時間・出来事の幅にズレがあることによって、このような相補性が表現されているように思う。

(映像は、ほぼ時間通りの順番に並んでいるようだが、声=言葉は、時間的に前後するようだ。)

⚫︎また、二人の対話から、あらゆることを記憶している妹に対し、姉は忘れっぽく過去をろくに覚えていないことがうかがえる。妹が「私のことも忘れていたのではないか」と問うても、姉は否定するのではなく「うーん」と曖昧に誤魔化す。また姉は、ある出来事に対して「今知ったみたいに思い出した」とも言う。逆に言えば、過去に対して曖昧でしかない姉には、妹の存在を思い出したかのように「今知った」に過ぎないかもしれないという危うさがある。ある女が現れて「自分が妹だ」と言ったから「妹の記憶」が事後的に生まれたのかも知れないのだ。つまり、姉の記憶の曖昧さ、危うさは、妹の「しっかりした記憶」の根拠(そもそも「妹」という存在の根拠)すらも怪しくさせる。

あらゆるコミュニティ、あらゆる領土の「外」にある海岸で再会した二人には、二人の語る記憶の背景をなす文脈としてそれ保証する地盤的ネットワーク(共同性・歴史)を求めることができなくなっている。二人がいる、海岸や坂道には地名がない。さきちゃん、くーちゃんと愛称で呼び合う彼女たちの関係や来歴には、固有名の多くが欠けている(「ブックオフ」という固有名がいきなり出てくると、その生々しさにドキッとする)。しかしこの、記憶やその内容の危うさ、あやふやさは、今、ここにある二人の身体やその仕草・動き、あるいは、発せられる二つの声や喋り方のトーン、そしてさまざまに映し出される「波」など(名付けられていない「これ」として)をかえって際立たせるように思う。

(映画の観客は、まずは何も意味づけられていないままの「これ(この姿、このテクスチャー、この動き)」を見てとにかく受け入れ、のちにそれを特定の意味のネットワーク上に位置を見出し、着地させて納得する。)

妹が「村の外」という「この海岸」は、社会の外であることにより、二人の過去や関係を意味としては極度に抽象化するが、そこが宇宙が露呈する裂け目であることにより、風景や人物のテクスチャーとしての具体性を際立たせる。社会的関係性や象徴性のネットワークから切り離されて、「ここ」にある「これ」のテクスチャーが前景化するこの場所が「地上」と呼ばれるものではないか。ここでは「姉 / 妹」「忘却 / 記憶」「救われる / 救う」という役割さえ、エチュードのために仮に与えられたものに過ぎないかも知れない。誰でもない誰かと、もう一人別の誰かが、「この海岸」で改めて出会い直す。過去の因果は既に定かではなく、前世の因果かも知れないが、とにかく「再会」である出会いをする。そのような出来事が、この映画では起こっているのではないか。

ただしあくまで「地上」にいる二人は、「ここ」にある「これ」としての風景や波のテクスチャー、同じく「ここ」にある「これ」としての「この身体(この声)」から放たれ、飛翔することはない(天使、ではないわたしが、地上にいます)。

・映画「脱出の最中」予告篇 A

https://www.youtube.com/watch?v=Fx70tCzkvI0

・脱出の最中 予告篇 B

https://www.youtube.com/watch?v=vmeJE5pQIWo