⚫︎(17日から続く)中野のスペース「水性」での『温室 / オンシル』(仮)予告上演について。
⚫︎(昨日から続く)『温室 / オンシル』第一部の予告上演(三野新 : 戯曲、山本浩貴 : 演出、石川朝日 : 出演)について。
⚫︎『外が静かになるまで』における登場人物(?)としての「飛行機」と『温室 / オンシル』における「トラック」は、どちらも、他の二人の人物(?)に動かないオブジェクトの名がつけられているのに対して、第三の人物(?)として、動く乗り物の名がつけられている。しかし、その意味は同じではない。飛行機は海を越えられるが、トラックは越えられないからだ。主に韓国との関係が問題となるのであろう「温室…」において、主にアメリカとの関係が問題とされる「外が…」における飛行機に対応するものは「トラック」ではなく「フェリー(船)」だろう。つまり(第三の存在としての)「乗り物」は、登場人物(?)から、舞台そのものへと位置をかえている。
「外が…」では、ベッドやソファーという人物 / オブジェクトが「動かない」のと同時に「ここ(舞台)」である「ホテルの部屋」も動かない。そして「ここ・ホテルの部屋」は「青森県三沢市」であり、同時に「日本のどこかの都市」でもありえて、つまり「日本」であろう。しかし「温室…」の舞台は「フェリーの上にある温室」であり、「ここ(舞台)」ごと、海の上を移動する。その場合、「ここ」が日本であるとは限らなくなる。「外が…」では、「ここ」は日本であり、アメリカは(「外」と言えるかどうかわからないが、少なくとも)「ここではないところ」としてあった。しかし、(これがこの作品のユニークなところだと思うが)「温室…」では、「ここ」は日本でもありえ、韓国でもありえるような場所として立ち上げられている。いや違うか。「ここ」は、(日本の人にとっての)日本でもないし(韓国の人にとっての)韓国でもない、どちらとも言えない(中間というよりも)抽象的な地帯というべきか。だから、登場人物(?)である、「石」「鉄」「トラック」も、日本の人なのか韓国の人なのかよくわからない。この人たちは(極めて稀に韓国語が混じるとしても)基本的に日本語で対話しているが、しかし、自動車や地下鉄で行ける地続きの場所として韓国にある地名(ハンガン公園)を挙げてもいる。
(考えてみれば、「温室」とは、人工的に環境を調整することで、本来「その土地」には生息できない植物を生息させる場所であり、また、自然状態であれば「同じ場所」では生育できない複数の植物種を共存させる場所でもある。だから「船の上(つまり「海の上」)の温室」とは、二重の意味でどこにも属さない場所だと言えるだろう。)
⚫︎「外が…」もまた、ある抽象的な次元で展開される作品だが、それでも日米間にある具体的な問題の反映は見られた(在日米軍基地など)。しかし、「温室…」では、少なくとも第一部においては日韓関係における具体的な(政治的・歴史的・時事的に大きな)問題はほとんど取り上げられていない。この作品における「日韓関係」の具体性は、ただyoutubeによって表現されるものに限られている。というか、YouTubeのあり方によって日韓関係が表現されているというのが、とても面白いと思った。
《ニュースみたいなやつとか、誰かの雑談配信とか、ゲーム実況とか、韓国語で喋ってる人の上に、日本語の字幕が乗ってたり、その逆だったり。ああいうの見てると、自分がどの国にいるのか、ときどきよくわかんなくなるんです。日本のコメント欄なのに、ハングルが流れてきたり、韓国のチャンネルなのに、日本語で喧嘩してたりして》。
この作品の舞台である「フェリーの上の温室」は、まさにこのような状況と類比的な場であろう。もちろん、このような作品(舞台の設定)あり方には、日本と韓国との非対称性を見えなくしてしまうのではないかという危険があるのだが、そのことを作家(制作者たち)が意識していないはずはない(だからそうはならないだろう)と思う。むしろ、この「危険」こそが主題になっているとさえ言えるかもしれない。
(たとえば、そのような「場=フェリー」の上が、検疫や「記録の削除」によって成り立っていることが書き込まれている。)
⚫︎「外が…」で、ホテルの部屋から「出られる / 出られない」という問題は、「温室…」では、フェリーから「降りられる / 降りられない」という問題へと転移し、それはさらに発展して「(繰り返し再演される)この役」から「降りられる / 降りられない」という問題とそのまま直結する。「ここ」が「日本」であった「外が…」では、「ここを出る」とはつまり「日本を出る」ことだと考えてもそんなに間違っていないはずだが、そもそも「ここ」が抽象性によって開かれた(特定のどこかではなく多義的な)場所としてある「温室…」において、「ここから降りる」とは一体「何」から降りることなのか。それはつまり、「役を降りる」という場合も、「何々という特定の役」から降りるのではなく、どんなものかもよくわからず、なんだかわからないままで何かしらを演じさせられている「役」というもの、そのものから「降りる」というのは一体どういうことなのか、という話になるのではないだろうか。
(とりあえずは、ここまで。)
⚫︎追記。余談だが、『温室 / オンシル』の上演を観ていて、黒川幸則監督の映画『脱出の最中』を思い出した。この二つは、まったく異なる「原理」、そして、まったく異なる「趣味」によって作られている異質の作品だが、それでもどこかで似た感触があるように思った。『脱出の最中』は、「社会」と「宇宙」との狭間にある場所としての海辺の街(海岸)、あるいは「生」と「死」との狭間にある場所としての海岸の街(海辺)が舞台の映画だ。つまり、人が「脱出の最中」にある限りにおいて現れる場所としての「海岸」の映画だった。