⚫︎昨日の話の続きだが、ぼくは最初の本でレオナルド・ダ・ヴィンチについて下のように書いていた。「空気を抱え込む人体」(『世界へと滲み出す脳』所収)より引用。
(画像は、ヴェロッキオ『キリストの礼拝』。Wikipediaから。向かって左にいる天使の部分をダ・ヴィンチが描いたと言われている。ヴェロッキオはダ・ヴィンチの師匠。)
《だが、タブローにおけるレオナルドの最大の魅力は、なんといってもその人物の描写にあるように思われる。ヴェロッキオの『キリストの礼拝』でも、レオナルドが描いたと言われる天使とその周囲は、他の部分とまったく異なる膨らみを持っているように見える。その描写は、たんに人物が描かれているのではなく、人物の周りの空間を、人物を描くことで生じさせているような描写なのだ。つまりレオナルドの描く人物は、周りの空気の中に居り、周りの空気と共に、周りの空気と同時に居る。だからレオナルドの描く人物のとるポーズは、周りの空気を動かし、空間を動かし、つまり画面全体を動かす。人物がその周りにまとう空間(空気)と同時に描き出されること。それは輪郭線に囲まれた形態があって、そこに彩色されたり、肉付けや明暗が施されることで立体的になるということとは根本的に異なる描き方だと言える。》
《あるいは、『聖ヒエロニスム』。ここで描かれた人物は、右足を前に立膝の姿勢をとり、左腕を空気を抱え込むように折り曲げ、右手で身体を開くように広げている。このポーズは、切り取られた輪郭線的な形として決して美しいものではない。しかしここでレオナルドが描こうとしているのは、左腕と(右肩から掛かるマントと)右足によってつくりだされる、人体前方の抱え込まれるような空間であり、その空間が、広げられた右腕のポーズによって開かれている様(その動き)だと言えるだろう(未完成であるがゆえに、そのことがはっきり観てとれる)。ここで人体は、輪郭的な形としてではなく、初めからダイナミックで三次元的な「空気」と「動き」を孕んだものとして捉えられている。》
《図像的に観ればそれほど複雑でも豪華でもない『最後の晩餐』(ぼくはこれは実物を観ていないのだが、図版で観る限り)が決して単調に見えないのは、その人物たちのポーズの組み合わせによって、乱れて舞う木枯らしのような、あるいは渦を巻き流れる水のような、空気の動きの複雑さこそがそこに描かれているからだろう。マザッチョの『楽園追放』で、肘を折り曲げ顔を覆っている人物の手や腕の描写からは、このような「空気」は感じられない。》
《だが、レオナルドによる「ひとつの空間」を出現させる技術改革は、非常に強いものとして作用し、それ以降、ピエロ・デラ・フランチェスカのようなやり方を洗い流して消してしまう。レオナルドのやり方は、当時としてはそれ程強い迫真生を持っていたのだろう。それ以降、西洋絵画においては、ヴェネチア派などの数少ない例外を除いて、ピエロ・デラ・フランチェスカのような表現は、マティスが出現するまで、大々的に試みられることがなくなってしまう。》
(最後の段落で言っていることは、ちょっと怪しい、あるいは強引かな、と、今では思う。方向的には間違っていないと思うが、ここまで言い切っていいのか?、と。)