●『ダージリン急行』(ウェス・アンダーソン)をDVDで。最近は、どんな映画を見ても、それがたんに「映画」という形式のなかでつくられているだけにしか思えず、(括弧付きの「立派な作品」だとは思っても)面白いと感じることが出来なかったのだが、これを見て、うわっ、「映画」だ、と思った(最初の「映画」と、次の「映画」との意味の違いはとても重要、最初の「映画」は、多くの人にとって、あるいはごく一部の映画好きたちにとって、と言っても問題は全く同じことなのだが、人々の共通の前提としてある「映画」のことなのだが、次の「映画」は、共通の前提を頼りにしない、その都度、新たに、孤独に、生み出されるしかないものとしての「映画」のことだ、シネフィルがダメなのは、マイノリティではあっても「孤独」ではないところにあると、ぼくは思う、開放的であることは、ベンヤミン的な意味で孤独であることによってしか実現しない)。
インドまで行って、結局は「家族の問題」かよ、と言えなくもないのだが、しかし、「家族の問題」に囚われているのはあくまで登場人物たちであって、映画そのものではない。この映画が問題にしているのは、家族の物語であるよりは、あくまで細部の感触であって、例えば、オーエン・ウィルソンがいきなり顔じゅう包帯だらけにして現れる時の感じとか、ヒゲの車掌が切符を検札した後に壁の「切符挟み」とでもいう部分に切手を挟むという意外さとか、兄弟三人の会話がまったく会話として成りただずに拡散してゆく様だとか、三男のジェイムス・ウェルスマンが、電車に乗って早々、乗務員のミントティー売りの女性を誘ってトイレでセックスする時の、その独自の女たらしの感じとか、三人が乗る電車の部屋や廊下の「狭さ」や物がひしめく「雑多さ」の感じだったりするのだ。そしてそのような一つ一つの細部は、あくまで物語に従属することのない細部としての断片的で独自の運動性を保ちつつも、『ダージリン急行』という作品の内部をみっしりと満たす、その作品の一部分であるという役割も同時に担っているというところが凄いのだ(一つ一つの細部は、全体を構築するためにつくられているのではなく、あくまで、一つ一つ独立したものとしてあるのだが、それが結果として、揺らぎと危うさを含みつつ、かろうじて、一つの作品を形作るものとなっている、というところが凄いのだ、この断片への指向や、細部の強度は、この監督の以前の作品よりもよりいっそう強いものとなっている)。
全体や物語的主題が先にあるのではなく、あくまで細部の感触が先にあり、しかし、それらの細部のそれぞれバラバラな運動の集積が、間違いなく『ダージリン急行』という「一つの」作品を、その物語としての進行を、支えるものとして機能してもいる。まったくバラバラにある細部の運動の感触が、「結果として」一つの作品というある一つの運動を奇跡的に出現させている、と言えばよいのか。だからこの映画は、やはり「家族の物語」として出現するのだが、決して家族の物語には収斂されない、圧倒的に雑多なものとしてある(家族がどうこうという話より強く、三人の兄弟が、それぞれはまったく似ていないのに、三人並ぶと「兄弟」にしか見えない、とか、そういう点こそが面白い)。映画の終盤近くになって、すべてを受け入れるかのような母親が出て来て、えっ、こんなところに物語が収斂されてしまうのか、という危惧が一瞬よぎるのだが、その母親は、過ぎ去ったことは忘れろ、と兄弟を突き放して、翌朝には姿を消してしまう。このような進行を見て、ウェス・アンダーソンの凄さは、危うさを賢明さや周到さで避ける知性にあるのではなく、危うさに半ばはまり込みつつも、それをギリギリのところで回避するところに(その運動神経に)あるのだということを、改めて思うのだ。
黒沢清がどこかで、映画では、シーンやショットの単位でかなりデタラメなことをやっても、それがもっともらしく編集で繋がれた途端に、ひとつながりの時間という「一つの流れ」のなかに納まってしまい、それに従属してしまう、ということを書いていた(だからこそ、そこから容易に逃れ得る「予告編」が妙に面白かったりする)。『ダージリン急行』では、それが全体として一つの作品であるということと、それが決して全体に納まることのない個々の細部のデコボコした雑多な運動の集まりであるということが、ぎりぎりに拮抗しているところが凄いのだと思う(リュミエールの短編がいくつも折り重なって出来ているかのような映画だ)。そしてその「拮抗」を保証するものは、作品をつくる「前」にはどこにも存在していなく、つくることの現場で一つ一つ揺らぎ迷いつつも確認して進んでゆくしかないもののはずなのだ(映画の文法や原理など、実作する時にはまったく役に立たないだろう)。実際、『ダージリン急行』の一つ一つのシーンやショットの作り出す空間は、以前のウェス・アンダーソンの映画と比べても格段に複雑で、かつ自由な(つまり、特定のスタイルや原理に囚われていない)ものになっていると思う。以前のこの監督の構図は、どこかグラフィカルで図示的であったのだが、この映画では、もっと、複雑で雑多で、物がぎっしりと詰まっている感じがする。この視覚的な複雑さは半端ではない。この複雑さは、インドを撮影対象としているということもあるが、それ以上に、電車の「狭さ」によって可能になっているようにも思われる。そしてその複雑さが、少しも「小難しい」表情を纏っていない(難解っぽさ、というのはつまり、「素人は口を出すな」というような、外部への臆病な防衛として機能する)ということろが、また凄い。