●何日か前だけど、深夜にBSで『頭痛 肩こり 樋口一葉』(こまつ座)の舞台録画をやっていたのをなんとなく観ていて、その、ベタの上にもう一つ二つベタを重ねるような、徹底したベタさに軽いショックを受けた。演技もベタベタ、演出もベタベタ、台本もベタベタ。分かり易く記号化された人物、はっきりと聞き取り易い(そして理解に迷うことのない)セリフ、曖昧さのないきっぱりした感情の動き、適度な抑揚はあるものの揺らぐことのない平明なリズム、戸惑うことのあり得ないきれいに図式的な設定と展開。笑いがあり、涙があり、適度な文化的香りと多少の啓蒙的要素がある。観客に一切の疑問を抱かせない親切なつくり。多くの人に「伝える」ためには、ここまで噛んで含めたような徹底した分かり易さが必要なのか。
ここには、ぼくが「作品」というものから感じる魅力的要素のほとんどが(そんなものは青二才のたわごとだと言わんばかりに)きれいに漂白するように洗い流されていて、疑問を感じる余地もない分かり易さ(作者の意図を誰もが読み間違えることのない、すべてが合理的に説明可能、というような)が追究されていた。
ショックを受けたというのはおそらく、ここまで徹底してニュアンスを欠いた「分かり易さ」に特化した作品を今まであまり観たことがなかったということなのだろうと思う。商業演劇というのは「ここまでやるものなのか……」と動揺してしまった。というか、「ここまでやらないと分かってもらえないのか」なのかもしれない。
うーん、これなのか…、という感じ。「これなのか…」というのは、「でも、こんなのつまんないよね」ということでもない。いや、そうなのだけど、「つまんないよね」とは言い切れない、煮え切らなさが生じてしまったということだ。とはいえ、「でも、こんなのつまんなよね」と言いたいし、ぼくにとっては明確に「つまらない」のだけど、ただ、でも、ぼくの思う「つまらない」は、この「分かり易い」に対してどの程度の強さをもつのだろうか。ぼくはどこまで自信をもって「つまらない」と言えるのか。この揺らぎは恐怖のようなものでもある。
(演劇のテレビ放送を最初から最後までちゃんと通して観るということはぼくにとってとても稀なことで――チェルフィッチュ以来ではないかと思う――それを考えるときっと――否定的なものにしろ肯定的なものにしろ――「何か」感じるものがあったのだろうと思う。)
もしかするとこの「分かり易さ」というのは、演劇というメディアの重要な何かにかかわっているのかもしれない、とも、ちらっと思った。目の前で、生身の人間によって演じられるからこそ、人物は身体性を捨てて記号になり切らなければならないし、セリフは声であることを捨ててテキストにリなり切り、物語は曖昧な細部を捨てて図式になり切らなければならず、そのように、余計なニュアンスを全て振り切って捨てることによって、目の前の時間・空間で「外在化された抽象的な思考」そのものが展開されているかのような表現が可能になるのかもしれない。
いや別に、『頭痛 肩こり 樋口一葉』がそこまでの作品だと言っているのではない。でも、そのあまりに割り切った「分かり易さ」の徹底によって、その向こうに何か妙な感じがチラチラ見えそうな気も、少ししたということだ。