⚫︎我々は二つの目を持っている。目が二つあるにもかかわらず、視覚像は一つだ。通常、二つある目の一方から得られるものを視覚像として(利き眼)、もう一方の像は背景に退き、差分(視差)を得るために潜在的に働いている。
目が二つなのに視覚像は一つ。もう一つの像は、見ている(働いている)のに見えていない。このことを、ラカンの鏡像段階の理論に繰り込もうとする赤間啓之の図がある。ここで展開される赤間のロジックはとても複雑で、なかなか追いきれない。呑み込めないままで、しかし、この図のことを面白いとずっと思ってきた。古い本で、奥付けには昭和63年(1988年だ)発行となっている。
(昭和63年は実質的な昭和最後の年だ、昭和64年は7日間しかなかった。)

主観的には視覚像は一つだ。しかし、鏡を見ると、そこに写っている「わたし」には目が二つある。わたしの視覚は一つなのに、わたしを見ている鏡の中の「わたし」は二つの方向からわたしを見ている。赤間はこの分裂から論を立てる。《われわれはだから、利き眼で非利き眼の像を見ているのにそれと気づかず、一方非利き眼のうつろな像はわたしを見ていると想像されてしまう(…)この左右がまぐわう幻想も、鏡のはしにぼうっと映った大きな利き眼のイマーゴによって終止符をうたれる》。《この存在は鏡像の世界といくぶん次元を異にしており、「私が見ているところを見る眼」(ルカ)ということで、たとえば宗教的には邪眼とでも名付けることができる。ともあれそれは不気味なもの、不安を惹起させるもの等々といった大文字の他者 Autre ないしその催眠効果をめぐるさまざまな形容を受け入れることになるであろう》。
ただし、この論に反論することもできる。我々は、鏡の中の「わたし」の二つの目を、あらかじめ「一つの視覚」として捉えている。なぜならば、わたしは相手の「視線」を追うことができるからだ。人は通常、相手が何を見ているのか、どの方向の、どのくらいの距離にあるものを見ているのかを、相手の視線から、かなり高い精度で読み取ることができる。なぜそんなことができるのかといえば、我々は「二つの目が協働して働いている」ことを知っているからだ。「二つの目の協働」の具合を見ることで、相手の視線の先を読むことができる。目玉が一つしか見えないときは、相手が何を見ているのかよくわからなくなる。
だが、だからといって赤間の問題設定が否定されるわけではないだろうと思う。二つの目は、協働していると同時に、分裂してもいる。常に協働しているわけではないし、常に分裂しているわけでもない(協働は分裂の危機を孕み、分裂は協働へと導かれる可能性を持つ)。どちらかを過度に強調するのでなく、協働モードと分裂モードとの重ね描きとして、視覚を(あるいは、視覚をモデルとする「主体」を)考える必要があるだろうと思う。
