●夜の空。空を覆う雲がすごい勢いで流れてゆくけど、月のある場所だけは避けて通っているかのようで、光った月がずっと見えつづけていた。
●キャンバスの表面に目止めのためにマットメディウムを塗布する。朝早く塗布し、夜になって乾燥してから、もう一度塗布する。これはアクリル系の絵の具で描いていたときには必要なかった手間だ。木枠を組み、キャンバスを張り、目止めをする。ぼくはこういう下準備みたいな作業がとても面倒くさくて好きではない(大工仕事みたいなことはすごく下手だし)。できれば、既に出来上がった状態のものを買ってきて、「いきなり」絵を描くことに入っていきたいと思ってしまう。しかし、こういう作業を通じて、視覚的ではないやり方で、キャンバスの大きさを体で感じてゆくことは重要、だと自分に言い聞かせる。それと、少し間があいてしまったので、このような作業を通じて少しずつ何かを起動させてゆく。絵の具のストックをチェックして、買い足さなければいけないものを調べる。油絵具で描くようになって、いろんなことを意図的にゆっくりすすめるようになった。油絵具がそれを強いる(経済的にはますます苦しくなる)。
●散歩を再開する。夏の間は暑いし、今年は天気がとても不安定だったので、長時間外を歩くことが出来なかった。肩慣らしに、隣の駅まで回り道をして一時間くらいかけて歩いたが、最初のうちは光の強さに昂揚していたのに、まだまだ暑くてすぐにへばってしまった。駅近くの古本屋で本を眺めながら少し涼んで、帰りは妥協して電車に乗ってしまった。「ガリガリ君」を生まれてはじめて食べた。
●つづき、五回目。「ここで、ここで」(柴崎友香)について。
最初の方でぼくは、「わたし」が工場地帯の様子やその空間的スケール感にある「馴染み」の感覚のようなものを抱いていると書いたけど、四つ目の場面を読むと、それはそんなに単純ではないことが分かる。それは、見慣れた親しさとどうしても馴染めない異物感とが、背中合わせに裏表でぴったりと貼りついている感触のようだ。そこは生家に近く、今でも実家はその周辺にあり、昔からよく見知った空間ではあるが、それと同時に、常に「わたし」の感じる親しさをはねつけるような感触もある。実際、「わたし」は生家を特定できないし、自分の《いちばん古い記憶》の根拠をみつけることができない。親しみを感じているはずなのに、どこかその「親しみ」がすり替えられた偽物であるようにも感じられてしまう生家の周辺をさまよう「わたし」が惹きつけられるのは、またもや、どこにでもある画一的な空間である「イケア」なのだった。《見上げるとハッピーな感じのソファーの広告が掲げてあった》。実際にはこれこそが「偽物」であるはずのこの《ハッピーな感じ》が、「わたし」の内部に親しさの感覚を起動させる。橋の上で身動きができなくなった「わたし」が頼りにしたものは、この《ハッピーな感じ》だったのかもしれない。
(しかしそのことによって、見慣れた親しさとどうしても馴染めない異物感とが背中合わせになっている場所に「魅了されること」が否定されるわけではない。)
●四つ目の場面で終わっても、それはそれで成り立つと思われるのだが、最後に短い断片が二つ付け加えられる。五つ目の場面。この《東京へ帰る新幹線》が「いつ」なのかは指定されない。夏のイベントの後なのか、橋の上事件の後なのか、それともまったく別の用件からの帰りなのか。この場面では、「いつ」であるかの特定がないことと、それがどこかからの《帰り》であることによって、前の四つの場面からの軽い切断のような効果があると思われる。ここからちょっと調子がかわりますよ、というような。
新幹線のなかで《男ばかりのスタッフに囲まれて、退屈そう》な歌手の女の子の後ろの席だった「わたし」は、彼女がiPhoneを操作するのを隙間から見て、自分のiPhoneで彼女のブログを検索する。一分前に、まさに目の前で更新されたブログには、《みんなのloveが力に変わるよ。信じてる。すべての人に感謝》と書かれていた。これだけの短い断片だが、この歌手の女の子の行為はどこかで、人気のない生家周辺でイケアを見出す「わたし」と響くものがある。そしておそらく「わたし」は、歌手の女の子のこの紋切型のブログから、イケアの広告の《ハッピーな感じ》に近い何かを感じている。そしてこの感じこそが、橋の上の「わたし」の《誰も気づかないあいだに実行する》自動運動を押しとどめた何かなのだろう。
ここで、歌手の女の子と「わたし」は直接言葉を交わしたわけではない。歌手の女の子は「わたし」の存在すら気づかない。自分が今打ち込んだ文章が、すぐ後ろに坐っている誰かに受け止められ、何かを感じさせたことを知らない。それは、イケアのソファーの広告をつくった誰かは、「わたし」がその≪ハッピーな感じ≫を拠り所として、身動きできなくなった橋の上から「現世」へ帰還できたのだということを知らないのと同じだ。しかしそれは、どこかの誰かによって発せられ、まわりまわって、どこかの誰かに受け止められる。それは時に、目の前に実際にあるものよりも強い。そのおかげで、目の前に誰もいない場所でも「わたし」は《まだ殺されたこと》がない。それがつまり、《みんなのloveが力に変わるよ》ということではないか。
●六つ目の場面。最後の場面。《今年の夏の初め》とされるので(しかしここでも、「今年」は「いつ」からみた今年なのか分からないのだが、その点はもういいだろう)、おそらくイベントや「ここでここで」よりも前のことだと思われる。とはいえ、この出来事が「いつ」なのか本当は分からない(偽の記憶かもしれない)と言う風にラストで匂わされ、宙に吊られる。このラストもまた、唐突に語り手としての「わたし」の「現在時」を浮上させて、この小説全体が「書かれたもの」であることを強調するのだが、その点も、まあいいと思う。ここで重要なのは、この小説は全体として、一方で記憶や感覚がなまなましく描き出されながら、もう一方で、それ自体常に反復されたものであり、その根拠が剥奪されている、ということだ。それは「いつ」起きたのか、それは「実際にあったことなのか」、本当のところは分からない、という感覚。
だが、そういうことよりも、次の場面を引用すれば、それだけでもう充分である気もする。
《タクシーを降りたときから、そこらじゅうで燕が鳴くのが聞こえていた。ほとんど人通りのない狭い道の両側に迫った建物に反射して、燕の鳴き声が響き渡っていた。軽やかな鈴のような、歌のようなその声は、いくつもいくつも重なり合って、蛍光灯が照らす紫色の、夜明けと錯覚する光に溢れた通りに途切れることなく響きつづけていた。一組だけ前を歩いていた酔っ払った夫婦らしい男女が、頭上を見渡した。わたしと同じように。あんなにたくさんの燕の声を一時に聞いたことはなかった。》
ぼくは最初にここを読んだ時に、最後の二つの文が「、」によって結ばれた一つの文であるかのように誤読してしまった。《わたしと同じように、あんなにたくさんの燕の声を一時に聞いたことはなかった》、と。つまり、前を歩く夫婦もまた、《わたしと同じように》こんなにたくさんの燕の声を聞いたことはなかったのだ、と、見ず知らずの「わたし」が(一人称を逸脱して)勝手に断言してしまっているように読んだ。普通に読めば、《わたしと同じように》は、前の文の、《頭上を見渡した》という行為にかかっている。しかしここで、わざわざ倒置的に《わたしと同じように》を二つの文の間に挿んだということは、それが後ろの文にもかかるというニュアンスを出したかったからではないだろうか。
ぼくはここであえて、自分の誤読を押し通したいと思う。つまり、「わたし」が、前をゆく夫婦らしい男女もまたこんな体験ははじめてなのだと「断言」してしまっている、という風に。この一人称の逸脱こそが重要なのだ、と。そしてその「断言(逸脱)」の根拠が、この小説の全体で書かれていることなのだ、と。
とりあえず、今のところはここまで。