⚫︎作家性とはなんだろうか。まず最初に、スタイル・技法・技術ということが考えられる。ある特異的なスタイル・技法・技術を作家性と呼ぶ。次に、そのスタイル・技法・技術に内実を与えるものとしてアーカイブが考えられる。その作家独自のアーカイブと、作家独自のスタイル・希望・技術との結びつきが、一つの作家性を生じさせると捉えられる。さらには、スタイル・技法・技術とアーカイブとを、具体的に結びつける作業を行う、あるいは、その二つの結びつきに必然性を与える根拠として、作家の身体というものが考えらる。ある固有の身体の媒介によって、スタイル・技法・技術とアーカイブが、ある特定の形で結びつくことができる。
(ここで、「スタイル・技法・技術」は共有可能だし、「アーカイブ」もある程度は共有可能だろう。では「身体」はどうか ? 身体の共有可能性をどのように考えれば良いのだろうか。たとえば「合作」あるいは「共同制作」によって、Aの身体、Bの身体とは違う、A+Bの身体の成立ということが考えられるだろう。)
(ここで「身体」とは必ずしも物理的身体ではなく、ある「アーカイブ」をもち、それを元にそこから特定のスタイルへと現動化・着地させる機能をもつ媒体のことを指す。)
もう一つ、ある特定の「スタイル・技法・技術」「アーカイブ」「身体」の三すくみ構造をメタ的に統合する「魂」というものが考えられる。一つの「スタイル・技法・技術」「アーカイブ」「身体」の結びつきが「良いもの」であるとしたら、その「良さ」の原因、または根拠として措定されるものが魂だろう。
ただしここで「魂」は、「スタイル・技法・技術」「アーカイブ」「身体」から自律して存在するものではないだろう。魂の大部分は、「スタイル・技法・技術」「アーカイブ」「身体」と不可分であり、それらによってできている。それらがなければ魂はない。いや、ない、とまでは言えないかもしれないが、少なくとも「見えない」。ただし、だからといって「魂」が、「スタイル・技法・技術」「アーカイブ」「身体」に還元できるわけではない。だから「魂」とは、「スタイル・技法・技術」「アーカイブ」「身体」という部品によってできているが、それら部品には還元できない何か、であり、ここでは創発のようなことが起きていると考えられる(故に「魂」はメタ的な位置にある)。
作家性とは、まとめて総合的に言えばこの「魂」のことだと、とりあえずは言えるだろう。
(記述が面倒なので、ここから後は「スタイル・技法・技術」「アーカイブ」「身体」の三すくみ構造を「作品」と呼ぶ。)
魂が作品を生成させる(作品の成立を導く)、というより、作品によって魂が生まれる、のだとすると、「魂」は事後的に生まれた「作品の根拠」となって因果が逆転する(時間が逆流する)。魂が作品の「良さ」の根拠であるとするなら、魂は少なくとも「潜在的」には事前にあったと言えなければならなくなる。だが、潜在性は知覚・認識不可能なので、「良さ」が成立した事後から遡行してそれを確認するしかない。
事前に「魂」に頼れないとしたら、具体的に「スタイル・技法・技術」と「アーカイブ」とを結びつけようとする「身体」は、一体何に導かれてその作業を行うのか。それは、予兆や徴候としか呼びようのないものであり、そこには基本的に根拠がない(または「捏造された根拠」しかない)。だから身体による(「スタイル・技法・技術」と「アーカイブ」を結びつけようとする)行為は「賭け」であり、根拠のないものに賭けるという形でしか作業が成立しない。根拠は先取りできない。
(だかここで「賭け」とは、ワンチャン逆転を狙って一か八かに賭ける、というようなことよりも、目をつむって手前にあるカップを探る、というような、地味なトライアンドエラーの繰り返しを通じてなされるような「賭け」だ。)
(予兆や兆候は、いわばチート的に先取りされた「魂(仮)」のようなものとも言えて、「身体」が行為を起こすために、まずはこのようなチートが必要なのだ、と言うこともできるだろう。)
魂が作品の成立によって生まれるのだから、作家Aの魂は作品を作る前にあるのではなく、作品とともに生まれる。だとしたら、AとBが合作・共同制作をした場合、そこにはAの魂ともBの魂とも異なる、作家A+Bの魂が生まれる。わたしの固有性や身体の個別性とは「別の区切り」を持った「魂」の可能性がそこにある。
(これはある種の「ナショナリズム」の原基と言えるのか ? )