言水制作室で、加藤陽子・展

●神保町の言水制作室(TEL03-3292-9229)http://www.kotomizpress.jp/exhibitionatkotomizpress.htmlで、加藤陽子・展を観る。
加藤陽子の作品について書くのはとても難しい。それはぼくが、加藤氏を個人的に十代の頃(高校生の頃)からよく知っているということのせいでもあるし、狭い会場に、良い作品からあまり良いとは思えない作品までがごた混ぜになって、壁を埋め尽くすほどに展示してあり、作品の質のかなりのムラもせいもあって、観易い状態の展示ではないというせいでもあるのだが、そういうことだけが原因ではない。
加藤陽子という画家はいわば野生の画家であり、その作品の良いところも欠点も、多くの部分をその「天然」さに負っているように思える。それは加藤氏の作品の「変わらなさ」からも分かる。加藤氏が本格的に絵を描きはじめたのは、大学に入学した89年頃だと思うのだが、その頃の作品も、今回展示されている作品も、良い作品を「良いもの」としている核心のようなもの、良くない作品を支配してしまっている欠点のようなもの、が、ほとんど変わっていないのだ。勿論そこには、技術的な進展があり、いくつかのスタイルの変更があり、そして質的な波がある。加藤氏の作品が、質的な意味でも、技術的な洗練という意味でも、最も高度な達成をみせていたのは90年代の終わりころだとぼくは思うし、その頃の作品からぼく自身も強く影響を受けている。その後、かなり大きなスランプに陥り、ここ1、2年くらいで、ようやくそこから抜け出す感じを掴みつつある、という感じだろう。(今回の展示の混沌とも混乱とも見える雑多さは、スランプの名残りと、しかしそこから抜け出すための確実な契機を掴んでいることの、その両方を示しているように思う。)しかし、そのような波のなかでも、加藤氏の作品の核のようなものは、うんざりする程に、ずうずうしい程に変わらない。それは、セザンヌの作品がいつも、うんざりする程セザンヌ以外ではあり得ないのと同じような意味で、そうなのだ。これは、加藤氏の画家としての貧しさを示しているとも言えるのだが、同時に、加藤氏が「本物」であることを示しているように思える。
●加藤氏の作品について書くことの難しさは、その変わらないものとしての「良さ」や「欠点」について、言葉にすることの難しさなのだ。本格的に絵を描きはじめた頃の作品の瑞々しい感覚と、90年代終わり頃の作品のみせた自信に満ちた高度な達成と、今回展示されている作品からみられる、スランプから抜け出ようとする作品に射してくる光のようなものには、それぞれに技法もスタイルも強度も異なるにも関わらず、それらの作品を「良い作品」として成立させている「良さ」は変わらないようにぼくには見える。別のいい方をすれば、技法やスタイルに関する特定のこだわりもなく、絵画というメディウムそのものや形式性についての深い思考があるわけでもない加藤氏の作品を、優れた作品として成り立たせているのは、(言語によって分節しがたい、しかし作品を観れば一目瞭然であるような)うんざりするほど頑固に変わらないその「良さ」だけなのだ、とも言えるだろう。
●その「変わらなさ」は、基底的な気分のようなものとして、加藤氏の作品を染め上げている。加藤氏の作品は多分に情動的なものによって支配されている。情動は、私から発して周囲の環境を染め上げるのか、それとも、周囲の環境(状況)から発して私を染め上げるのか、どちらとも言えないのだが、どちらにしても、私とその周囲の環境を共に巻き込んでうねりのなかへと流し込む。私と環境とを巻き込んで吹き荒れる情動の混沌としたうねりのなかから、その混沌を丸ごと受け入れつつ、そこから澄んだ響きや広がりを聞き取って掴み取り、(ドゥルーズの言うリトゥルネロのような意味での)ある小さなテリトリーを設立しようとする時、その響きを聞き分ける耳、あるいはそのテリトリーを成立させる音感(音調)のようなものが、加藤氏の作品では、いつも変わらないものとして存在している。
加藤陽子・展「希望に向かえ!」は、神保町の言水制作室(TEL03-3292-9229)で、5月31日まで。水曜休み。