加藤陽子「ただひとつ」展

●神保町の言水制作室(http://www.kotomizpress.jp/)で、加藤陽子「ただひとつ」展。比較するとこには何の意味もないが、例えば大竹伸朗の作品が、雑誌のページをパラパラとめくるように、ある作品から次の作品へと視線を「はやく」移動させ、その移動のある程度のスピード感によってはじめて「観られる」ようなものであるのに対し(つまりひとつひとつの作品との関係が淡白であるのに対し)、加藤陽子の作品は、ひとつの作品の前に長く佇むことを要求する。「佇む」という言い方ではややきれい過ぎるかもしれなくて、それはまるで「呪い」のように視線を巻き込んで留めてしまう、といった方が適当かもしれない。(作家は、呪いではなく「祈り」なのだと反論するだろうけど、人を繰り返し祈りの場へ連れてゆくような力が「呪い」でなくてなんであろうか。)多くの人にとっては、そんなもの重たすぎるから勘弁してくれ、ということになるのかも知れない。しかし「作品を観る」ということが、その作家の存在と同等なくらいの抵抗感を作品から押し返されるということでなければ、芸術作品など観てもしょうがない。それに、今回展示されている三点の大作は、作家が深みにまで沈み込みつつも、その深みにはまったままで終わるのではなく、そこから再浮上するところまで突き抜けているので、それを観る者も、深みに巻き込まれたまま(その呪いのような場所に)置き去りにされることはなくて、不定形にうごめく「力」のよるべなさとその「深み」を基底として感じつつも、むしろ晴れ晴れとした開放感の方を強く感じることになるだろう。とはいえそれは非常に「重たい」ものだが、その重さは、(成功している作品の場合)最後の最後のところで人を様々な執着から切り離す力を得るのだ。加藤陽子とひとつひとつの作品との関係は、あるきっかけによってそこへと入り込み、徐々に深みにはまり、深みでもがきつつ、そこから力をこめて再び浮上してくるというプロセスを経ることで、その無意識の最深部とまで垂直につながったものとなっている。加藤陽子の作品の力は、決して「意識」によってはコントロールできない部分との接触によって供給されていて、だからそれを観る者の意識でコントロールできない部分に直接作用し、そこに響く。
●ぼくはこの作家を学生の頃から知っているのだけど、今回展示されている三点の大作のうち2005年に制作された二点は、作家が大学にはいってすぐの頃に描いた絵を思い出させるものだった。それは、それまで受験用のデッサンや油絵しか描いたことのない人が、いきなり大型のパネルや紙に絵の具をぶちまけるようにして描いたものだが、その時点で既に現在と同等の完成されたもの(スタイルというのとは違う、ある形のようなもの)があったということなのだけど、それは逆に言えば、作家が「世界に触れるやり方」が既に決定され(限定され)てしまっていた、ということでもある。その後、作家は様々なブレをみせつつも、その場所へと何度も帰ってゆくことになる。だが、今回の作品は、学生の頃に比べ、より多くの雑多なものを含み、よく多くの混乱を抱え込み、より無防備で大胆であり、つまり、作家は同じ場所に何度も立ち返りつつ、その都度少しずつ、より深く、より強く、より大きなものとなっていったのだと思う。(会期は10月28日まで。月、火休み。)
●今日の天気(06/10/19)http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/tenki1019.html