●sora tob sakana、本当に三人になってしまったのだな。四人での完成度がとても高かっただけに、一人抜けるのはやはり痛い。
190526 sora tob sakana
https://www.youtube.com/watch?v=ZqIl45cQHl4
アイドルの面白さの重要な点の一つに「(大人に)やらされている感」というのがあるとはよく言われる。いわゆるアーティストとは違って、その活動のモチベーションが能動的(主体的)であるより受動的である感じ。sora tob sakanaや、フィロソフィーのダンス、Maison book girlなどにおいて、その意味は、アイドルがプロデューサーのメディウムとして存在しているようにみえる、ということであるように思う。
(「やらされてる感」のありようはグループによってそれぞれ異なる。)
メディウムとは、たとえば画家にとっての絵の具やキャンバスのようなもののことだ。絵の具やキャンバスは、自ら主体的に「絵」になることはない。でも、画家は一方的に、自分の自由に、絵の具やキャンバスを奴隷のように使うのではなく、その特性を探り、特性と対話し、絵の具やキャンバス自身がもつ可能性を最大限に発揮するような表現の形をみつけだそうと試行錯誤する。ただ、そうであるとしても、絵の具やキャンバスが、自ら積極的、意識的に自分を表現するのではない。
(プロデューサー---あるいは「運営」---とアイドルとの関係は、主体と客体ということではないと思う。)
アイドルは、自ら積極的に自己表現するのではなく、(誰かがお膳立てした)ある表現のシステムのなかでそのメディウムとなることによって、結果として自らを表現する。「アイドルは自我があってはいけない」という言い方もあるが、それは、アイドルは自己を抑圧してグループに奉仕せよということではなく、積極的、意識的な表現とは別の(他者がつくった)過程や通路に入り込むことを通じて、結果としてそれが、(積極的、意識的には出来ない形で)自己を表現することになる、ということだと思う。
とはいえ、人には自我が芽生えるものだし、自らがメディウムとしてあることに満足できなくなることもある。「やらされている」ことによって十全に近い自己表現が実現していたとしても、そうではなく、自ら「やりたいこと」をやりたくなる。それは必然であり、そうなったら、そうするしかないだろう。つまり、メンバーがグループを抜けるのは必然であり、誰もとめられないだろう。
(アイドルというのは、安定したメディウムではないのだろう。)