2019-10-05

(にわかの思いつき程度のメモ)

アイドルにとってまず重要なのは、キャラでも、ルックスでも、スキルでも、コンセプトでもなく、曲の良さと、曲と声(歌唱法)とのマッチングで、それ以外の要素(キャラ、ルックス、スキル、コンセプト、あるいはパフォーマンス)は、あくまで基盤としてそれがあった上で、その上にのってくるものなのではないか。あと、(実年齢とは関係なく)「大人じゃない感」か。

だからアイドルとはあくまで音楽の媒体であり、ポピュラー音楽の一つの形式だといえるのではないか。

●音楽の形式としてのアイドルとは、先鋭的なもの、尖ったもの、新奇なもの、あるいは高度に洗練されたもの、が、「特別に高いスキルをもっているというわけではない若い女性」という依り代の上に降ろされることで、緩さや円みや隙がつくりだされる形式化の一つであり、それによって、そこに触れるための敷居を低くするという作用をもつものなのではないか。古い言葉で言えば、それはアバンギャルドキッチュ化の一種であるとも言える。

(だがここで、「特別に高いスキルをもっているわけではない」という言い方は必ずしも正確ではない。アイドルには、アイドルという形式における洗練があり、アイドルという形式におけるスキルの高度化がある。たとえばハロープロジェクトなど。)

あくまで「敷居を低くする」であり、ポピュラリティをもたせるということではない(アイドルという形式は現代ではサブカルチャーでありアングラ---地下アイドル---ですらある)

(これはやはり、日本的ガラパゴス的な現象なのだろう。たとえば韓国のアイドルはあくまで国際標準を狙っているようにみえるが---ビルボードチャートで一位となった男性アイドルBTSなど---日本は基本としてドメスティックであろう。ドメスティックであることの奇妙なありようが海外の人にうける、ということはあるとしても。)

その奇妙なおもしろさ。しかし、そういうものを、諸手をあげて賞賛してよいのかどうか、躊躇がないわけではない。とりわけ、それのメディウムがなぜ「若い女性」でなければならないのかという点で疑問がもたれるのは当然だろう(最近では、必ずしも「若い女性」である必要はないが---たとえば男性であっても---若い女性の形をしている」必要はあるようだ)。女性アイドルと男性アイドルとではかなり異質の文化であり、対称的ではないようだ。

(たとえば、女性アイドルに対する、女性ファンの占める割合の高さ、など。)

●ある音楽の形式が、ある特定の女性(あるいは女性グループ)を依り代とすることで、形式が属人化するという傾向もあるように思われる。ある形式がある人物を依り代とする時、ファンが推すのはまずその人であり、次にその人に降りた形式であるように思われる。ファンは、あくまで「人」を推すことを通じて、形式を受け取る。だが、それがたんなるキャラ化と異なるのは、アイドルは音楽のための依り代であり、「曲が良い」ということがまず前提とされているという点があるからではないか。

(あるいは形式)は、アイドル自身がつくったものでも、選んだものでもなく、大人から与えられ、つまり「大人にやらされている」ものだ。まず最初に、「先鋭的なもの、尖ったもの、新奇なもの、高度に洗練されたもの」、あるいは「資本」を持った大人(主体)がいて、アイドルはその大人=主体の依り代となる。

そこで「やらされているもの」こそが、そのアイドルの像の(あるいは評価の)基盤を形作っている、といえる。ここには近代的な意味での主体性はない。しかし、やらされていることを「やっている」のは他ならぬその人であり、それをやらされていれば誰でも同じということにはならない。他ならぬ「その人」が「それ」をやらされているということが重要であり、依り代は透明な媒体ではない。

依り代の、依り代としての質が、「やらされる」形をもつことで顕在化される。アイドル本人の「主体性」を考えるのならば、自ら進んで他者の表現の媒体となることで、自らの媒体としての性質を顕在化しようとする、ということになるのか。