2019-11-08

●少年野球には、少年野球としての充実したよい試合があり、よい選手がいるだろう。大リーグやナショナルチーム同士の試合でも、凡庸な試合はいくらでもあるだろうし、凡庸な選手もいるだろう。あるいは、おっさんのやる草野球でも、草野球としてよい試合もあるだろうし、よい選手もいるだろう。

これを、ピラミッド型のヒエラルキー(技術的なレベルの違い)の問題に還元して捉えてしまうと見えてこないものがある。少年野球にしかない固有のよさがあり、草野球にしかない固有の充実というものもあるはずだから。

ただ、言えるのは、少年野球の選手と草野球の選手と大リーグの選手を混ぜてしまうと、有意味な試合が成立しなくなってしまうということだ。ここにあるのが、フレームの問題であり、ゲシュタルトの問題であるのだと思う。

(少年野球の選手が大リーガーから学ぶことは多いだろうし、逆に、大リーガーが少年野球から気づきやモチベーションを得ることもあるだろう。対話は、そのように並列的、並行的に生じるのであって、直接交わることで生じるのではないと思われる。)

マルクス・ガブリエルは「世界は存在しない」とする。物理学という意味の場には「民主主義」は実在しないが、社会や政治という意味の場には実在する。あらゆる意味の場を包摂するグローバルな意味の場としての「(唯一の)世界」は存在しない。だから、物理学と社会・政治は混ぜられない、と。

(あるいは、物理学と社会・政治を混ぜるための、より拡張された大きなフレーム---意味の場---と、そのフレームによって可能になる新たなゲシュタルトはあり得るかもしれないが---というか、そういうものに希望を持っているのだが---しかし、それもまた限定されたひとつの意味の場であり、「世界」ではない、と。)