●『意識はいつ生まれるのか』(マルチェロ・マッスィミーニ、ジュリオ・トノーニ)を読み始めてからけっこう日が経つのに、なかなか読み進められないでいるのは、難しいからでも、つまらないからでもなく、怖いことがいっぱい書いてあって、その度に恐怖で固まってしまって、読み続けられなくなるからだ。たとえば、全身麻酔をして手術を受ける人のなかに、希に、手術の途中で意識が戻ってしまう人がいると書かれている。その時には、意識は戻っているが麻酔は効いているので体はまったく動かせず、箱詰めで閉ざされた脳のような、意識と身体とが完全に切り離されて体へのアクセスがゼロになる(体が消失してしまって意識だけがある)状態を経験するのだという。それは痛烈な恐怖であり、患者のトラウマとなる、と。そのような状態を想像しただけで、全身が恐怖で固まってしまう。
これはだいたい千人に一人くらいの割合で起こるが、実はもっと頻繁に起こっている可能性もあるとも書かれている。全身麻酔は、麻酔が効いている間の記憶を消去するという効果もあるので、手術中に死ぬほどの恐怖を味わっているのに、術後にそれを忘れているだけかもしれないのだ、と(「死ぬほどの恐怖を忘れてしまう」という恐怖)。
こういうことが書かれていると怖くてしばらく本に近づけなくなってしまうので、なかなか先へは進めない。それでもなんとか、ようやく半分を過ぎた。この本は、ミステリで言えば前半が事件篇で後半が解決篇になっていると最初に書かれている。つまり、前半は、脳と意識の関係で、どのようなことが問題なのかが提示され、後半は、著者たちが考え出した「統合情報理論」が、その問題をどのように、どの程度解決できるのかが書かれているという。で、ようやくその解決篇へ踏み込むことが出来たという段階。だから、まだ解決篇の頭のところしか読めていないのだが、それでも相当にすごいことが書いてある。
●ここでは、「意識」が生まれる情報ネットワークの条件として二つのことが挙げられている。(1)情報量が多いこと、(2)それが統合されていること。それは、「無数の潜在的な可能性」があり、そのなかから「一つの状態」が実現されているということでもある。例えば、デジカメの画素数がいくら多くなって解像度(情報量)が上がっても、それはバラバラな画素の集まりでしかなく、それを「一つの画像(あるいはカメラ)」として見るのは、「一つの」意識をもった観測者である。デジカメ自身が自分を「一なるもの」と規定しはしない。逆に、サーモスタットのような装置は、全体として一つの機能をもつ装置として統合されているが、オンとオフという二つの潜在的可能性しか持たない。
一方に、多様だが統合度の低いネットワークがあり、他方に、高い統合度をもってはいるが多様性の低いネットワークがある。そのどちらでもなく、多様性も統合度も共に高いネットワークには「意識」が生じると考えられる、と。そのようなネットワークを著者は、ネットワークを構成する要素の「すべてが重要」であり、かつ「それぞれが異なった理由で重要」であるようなネットワークだと表現している。そしてそれが実現するのは、それぞれ異なる分野の最高の専門医が、完璧なチームワークで働いている医療チームが実現するのと同じくらい、希有な出来事である、と(著者は医者である)。
だが、人間の脳の視床-皮質系は、実際にそのようなネットワークになっているという。例えば人間の脳でも、小脳は意識にはまったく関係がないそうで、小脳をすべて摘出しても、(運動はぎくしゃくするが)人間は何ら変わりなく意識を保つのだという。小脳は、ニューロンシナプスの数は視床-皮質系よりずっと多く、処理している情報量も多いのだけど、(デジカメと同様に)多様で分断された統合度の低い並列的なネットワークになっていて、そこから意識が生じることはなく、だからこそ多くの情報を素早く処理できるのだ、と。
そして著者たちは、多様性と統合度が共に高い度合いを定量的に算出できる方法をあみ出し、その単位を「Φ」とする。つまり、ある情報のネットワークの構造を外から見て、計算を行うことで、そこに意識が有るのか無いのかをΦの数値によって知ることが出来るのかもしれないということだ。これが事実なら、とんでもなくすごいことではないか。
(だが問題はある。この時、ある「ネットワーク全体」を複数の「機能のモジュール」に分けて、そのモジュール間の「つながり」の有り様を計算することになる。しかし、全体をどのようなモジュールに分割するのかという「分け方」は一つではなく多数あるので、可能な「分割の仕方」の全てについて計算し、その中で最も「つながり」の度合いの弱い、Φの値の低い場合の「分割の方法」で得られたものが、そのネットワークの正確なΦの値となる。だから、複雑なネットワークについては計算量があまりに膨大となり、事実上は「計算不可能」となるかもしれないということが書かれている。だから現実的には、計算を縮約した「仮のΦ」で満足しなければならないかもしれない。あくまで、「原理上は計算可能」ということかもしれない。)
●以下、引用。
《これまでに検討した単純な構造のモデル三点によって、Φとはなにを測るのかがよく理解でき、かなり腑に落ちたのではないかと思う。Φは、「多様な相互作用」と「統合」のバランスが最もよくとれた状態がどのようなものかを示してくれる。図5-2左上の“縦割り”のシステムのように統合の度合いが低くても、右上の“グローバル化”されたシステムのように均質であっても、Φは小さくなるということだ。三つのモデルが示すことはまだある。統合された情報は、実質的に、システム内部で起こりうる因果関係と同一のレベルにある。因果関係が特殊ではない、つまり、いろいろな要素を刺激しても常に同じ結果になるのであれば、Φの値は低くなる(情報量はわずか)。そして、それぞれの刺激にそれぞれ異なる反応が起こっても、それが残りの要素に波及しないのであれば、Φの値は同様に低いままだ(統合の度合いは低い)。》