●昨日の夜、アロハシャツで通勤する人の映像(クールビズ)をニュースで観てから寝たのだが、今朝は寒さで目が覚めた(目が覚めたら寒かった、ではなく)。熱が出て寒気があるのかと思ったら、本当に寒いのだった。
●『妄想少女オタク系』(堀禎一)。最近、鎮西尚一堀禎一ばっかり観てる気がする。堀禎一の映画はどれも面白いけど、「好き」という次元では今まで観たものでこれが一番好きかもしれない。観直している回数も一番多いし、泣かないでこの映画を観ることが出来ない。鈍感さに関してかぎりなく繊細な映画。
主人公の女の子はいわゆる腐女子で、美少年である千葉くんと阿部くんとの「関係」を妄想して萌えているのだが、ある日、阿部くんから告白されて混乱する。女の子にとって欲望の対象はあくまで千葉くんと阿部くんとの「関係」であるから、自分と阿部くんとの一対一の関係をそもそも想像することが出来ない。そして阿部くんも、女の子のそのような欲望の形態そのものを理解できない(え、それどういうこと、あいつホモが好きなの、え、ホモが好きってどういうこと、あいつ女だよなあ、え、え、ちょっとまって…)。この映画では、互いに相手を欲しながらも、その欲望のあり様の違いで決定的にすれ違ってしまう五人の高校生の関係を、特に大きな波乱や葛藤といったドラマチックな展開なしで、全体としてはある友好性が成立している穏やかな調子のなかで、最大限の繊細さによって描き出してゆく。
登場人物たちは皆、鈍感といえば鈍感であろう。阿部くんは女の子の欲望のあり様を理解できない(そもそもそういう欲望が存在することを認められない)。主人公の女の子は千葉くんと阿部くんが実際には「そういう関係」ではないという現実を受け入れられない。モテる千葉くんは、自分に言いよって来る多くの女の子たちの気持ちが分からない。つまり彼らはとても視野が狭く、それぞれ異なる方向で何かがが足りない。しかし彼らには他人への配慮と受け入れの姿勢が存在し、それによってもたらされる関係が、彼らを内在的に変化させてゆく。というか、普通に良い奴なのだ。
他者による自分への欲望の不可解さ(ある意味「気持ち悪さ」)への戸惑いと、しかしそれに対する繊細さと配慮によって開かれる友好性。そしてそれはそのまま裏返って、自分による他者への欲望の通じなさと届かなさを内包したままで持続する友好性となる。ここでは、欲望の行き違いによるもやもやが決して解消されないとしても(相手を理解できないとしても)、それが関係の破綻に発展するのではなく、もやもやを内包しつつ持続される良好な関係として持続するその様が、その配慮を通じて描きこまれている。
そして最後に女の子は、「わたしのなかの男子なぼくが阿部くんのこと好きみたいだ」と言うことになる(人間の欲望は何とめんどくさいものなのか)。つまり、ある関係の持続のなかで欲望の形態が(相手を受け入れる形で)少しずつ変化してゆく。阿部くんはおそらく、それが何を言っているのか分からないし、女の子のそのような態度に納得しているわけではないだろうが、それでも、二人の関係になにがしかの変化があったことは察知し、それを受け入れるだろう。(常にもやもやを伴う)繊細な配慮による関係の持続が欲望の形態を変化させ、それが関係そのものを変化させる。そのようなものとして二人の関係は持続し得るだろう。知が内在的に創発されるというのは、こういうことを言うのだと思う。
●今回観てすごくいいと思ったのは、夏休みに、主人公がふと部屋を出て、自転車に乗って外へ出る場面。ここでは、自転車の運動そのものを見せるというよりは、自転車の道行を見せるような感じのカットが重ねられ、かなり長い時間、長い距離、自転車に乗って走る女の子の姿が映し出されつづける。女の子がどこに、何をしに行こうとしているのかは示されないままで、自転車に乗っている女の子と背後の風景を見続けることになる。そしてある時、その女の子の乗る自転車が「阿部」という表札のある家の前をすっと通り過ぎる。あ、阿部くんの家に来たのかと思うと、女の子はそのまま通り過ぎて、その先の角を曲がるところで、母親の「ご飯ですよー」みたいな声がオフから被せられる。
ここでは、どこに行くのか不確定なままで見せられつづけた自転車の走行の様子やその長い時間が、「阿部」という表札が見えたとたんに、女の子の阿部くんへの感情の強さと定まらなさへと変換され、そして、そこをすっと通り越してしまう感じが、その行き先の見えなさまでを感じさせる。たんに「なんとなく阿部くんの家に行ってしまう」ということを超えた、映画としての時間と運動の感触として、それが現れる。あー、映画の描写ってこういうことだよなあと思う。
●以下の写真は、5月30日に撮ったもの。添付するのを忘れていた。