●昨日、書き忘れたけど、昨日書いたような「真剣だが何のためになされるのかよく分からない取り組みがぐたぐたした時間のなかでなされる」という時空のなかで生きているのが芸術家であり(その時間は拡散的でありつつも、問いかけ、試み、展開という方向性ももっている)、作品とはそのような時間のなかでしか生み出されない(作品とは、そのような時空の「結果」でしかないのかも)。そして、ぼくが強く『ring my bell』という作品に惹かれるのは、作品中にまさにそのような時空が成立し、そのような時空で生きる人物が実現されているからだと思う。ここで芸術家とは、音楽をやっている二人だけでなく、彼らに付き合う女の子も、もう一人出てくるファンの女の子もまた、その時空の内部にいるのだから、芸術家なのだ。
いや、芸術とか作品とかいう言葉を使うか使わないかは別にどっちでもいいのかもしれない(ここで言う「芸術」は何ものによっても権威づけられていないし、権威づけることも出来ないし)。実際、『ring my bell』では、作品をつくっているわけではない女の子やファンも同様にそのなかにある時空こそが重要であった。『The making of PRECIOUS TIME ONLY YOU』においても、ただ『 PRECIOUS TIME ONLY YOU』のビデオをつくるだけなら、わざわざこんな回りくどいことまでする必要はないのだし。
ここで(というのは『The making of PRECIOUS TIME ONLY YOU』と『ring my bell』の両方で、ということ)問題になっている問いかけ、試行、展開によって進行するぐだぐたした時間は、答え、解決、目的、目標(未来)へと向かって進む時間とは根本的に異質であるということだ。だからここでの問いかけは、回答へと向かうものではなく、試行を通じた「問いの書き換え」へと向かう問いのなだと思う。問いによって問われていたものは、あらたな問いによる構えの変化によって、別の配置-構成のなかに解体され、再編成される。問いの書き換えへと向かう問いかけは、必然的に時空をぐだぐだにさせる、と。
●問いや答えという「形」を捉えるのではなく、問いかけや試行をそれによって何かが動いてゆく「動き」として捉えること。例えばダンスを観る時、その「動き」をある形と次の形の間にあるもの(移行)として捉えるのは安易で不十分であろう。形と形の間に動きがあるのではなく、形とはたんに動きの終始点であり、動きの切断面である(形は、動きを捉えるための一つの手がかりとはなるだろうが)。少なくともそこに、動きそのものと、動きを編成するパターンと、そのパターン自身の変化としての「メタ動き」の三つを同時に観る必要があり(ここでメタ動きという言葉は不適切かもしれなくて、たんに、異なる次元での二つの動きが同時にあると言うべきか)、二番目のパターンのみ、ある程度「形」として把握可能かもしれないが、それ以外のものは「形」によっては捉えられない。
形にならない無数の動き(あるいは動きとなり得る潜在性)が同時に動いている時、人はそれをぐだぐだやゆるゆると区別できない。しかしそれは、通常、安易にイメージされる密度とはまったく別種の密度としてある。『ring my bell』にしても『The making of PRECIOUS TIME ONLY YOU』にしても、そのようなものとして捉えるべき作品なのではないか。
●小林耕平‐コアオブベルズ‐鎮西尚一の間に何か稲妻のようなものが貫いたことによって、『ring my bell』という作品が生まれたのではないだろうか。これは、「映画」が「ミュージシャン」や「アート」を取り込むとかいうこととは根本的に別の出来事だ。まず、ある領域があってそれが横断されるのではなく、それぞれの作品自身が(あるいは存在自身が)あって、それがそれ自体として直接共振しているのだと思う。