●深夜アニメ。『がっこうぐらし』第六話。いってみればこの作品は、第一話のインパクト(つまり、世界像のインパクト)に頼ってここまで来たと言える。でも、六話になって少し局面が変化してきた。最初に与えられたショックは、回を重ねるうちに徐々に弱まってきて、しかしそれと引き換えに、この作品世界に生きる登場人物たちの絶望というか、逃れがたい感情のようなものが、ショックという形ではなく、蔓延するものとして、じわじわとこちらに近づいて来ている感触がある。これは一時的なショックではなく、持続する絶望なのだ、という感じで。
例えば、めぐ姉が実在せず、ただユキにだけ見えている存在だということは、一話の演出で誰にとっても明らかだと思うのだが、それが六話になって、ようやくはっきりと示された。今更それを示したところで、何の驚きの効果も視聴者に感じさせることは出来ないだろう。しかしそれが、今になって改めて「確認される」ことによって、誰もが既に勘付いていた絶望的状況が、改めてダメ押し的に強調されたという効果をもつと思われる。
最初のショックに導かれて、既に六話分の、正直言えば大して面白くもないエピソードに付き合ってきた観客は、確実に六話分の時間、登場人物たちの生活を眺めてきたことになる。極限的で希望のない状態が日常であるような「日常系アニメ」として彼女たちの生活を眺めてきた我々にとって、ユキという存在のもつ重さ、貴重さ、そして痛々しさが、積み重なることで、ここで相転移を迎えたように思われる。
ユキの「狂気」は、この世界で生きるための重要な創造性であるように思われる。例えば『漂流教室』では、断固として「人間」に留まるか、融通無碍に未来世界に過剰適応した「怪物」に進化するかの二者択一だったものが、ここでは絶望に抗するための新たなあり様が創造されているように思われる。というか、六話に至って、ようやくそう感じることが出来た。
ユキは、他の登場人物たちにとって、お荷物であり、同時に救いである。ユキは、たんに現実逃避しているのではなく、残された自分たちの関係性のなかで、この現実を(自分一人だけでなく)「みんな」にとって 耐えうるものにするために、自らのあり様を創造したのだと言える。ユキの「狂気」は、「みんなの適応」のための技法なのだと思われる。
ユキは、どうやら、めぐ姉が死ぬまでは正気であったようだ。めぐ姉の死によってユキが「この技法(狂気)」をあみだしたのだとしたら、この技法は、ユキだけによって創造されたものではなく、めぐ姉と共同であみ出されたものと言えよう。だからユキには、めぐ姉が見えている。ユキは、みんなに支えられているが、同時に、ユキとめぐ姉がみんなを支えている。
六話を観たら、改めて一話が見たくなった。そして、改めて一話を観て、最初に見た時とは異なる、深く感じ入るものがあった。