2021-10-28

●ものごとの良し悪しを明確には言えない、なにかに対する態度をはっきりと示すことができないというのは、中立性の問題ではなく、複雑性の問題なのだと思う。その人がそのようにあるのは、そのようにあるしかない複雑な事情の絡み合いの結果として「そのようにある」のだから、それを一面的な視点からの評価によって判断することはできない。

ある面からみればAだが、しかし別の面からみるとBだし、また、当時の文脈を考えればCという要素も考慮に入れる必要がある。最近の研究により、Dという要素についても検討することも可能になった、など。非難される行為にも考慮すべき点はあり、賞賛される行為にも留意しなければならない点がある。複雑さをみることは、物事をよりクリアに見ようとすることだが、それにより、物事に対する態度は「はっきりしたもの」ではなくならざるを得ない。このように、複雑性は「正義」を相対化するが、それは、どっちもどっちということではない。

白か黒かということではなく、ある行為について、どの程度にポジティブでどの程度にネガティブであるのか、それらがどのように構成されてひとつの事案となっているのかを考える必要があるし、そのための指標が必要になる。どっちもどっちではなく、悪53パーセントと悪47パーセントとでは違う、ということが、根拠に基づいた、ある程度の正確性が期待される形で、言えなければならない(さしあたっては、仮に悪47パーセントと評価できる行為より他にマシな選択肢がないので、それを選ばざるを得ないという場合もあるだろう)。悪47パーセントの行為が、あたかも75パーセントの悪と同等であるかのように非難されるのは正当なことではない、という議論が可能でなければならないと思う。

解像度を上げるというのは、具体的に53パーセントと47パーセントとの違いを識別可能にするということで、そのためには、多量で多角的な情報や、文脈や歴史的経緯にかんする高度な知識が必要であり、さらに、それらを踏まえた総合的な判断力が必要となる。つまりそれは誰にでもできるというものではない(というか、ほとんど人間には不可能だとさえ思える)。

だからなにも言うな、ということではない。基本的に誰がなにを言ってもいいはずだが(というか、みんなもっと自由に気楽に発言すべきだとさえ思うのだが)、なにを言うにしてもそれが間違っている可能性が常にかなりあるということを自覚してなにかを言うべきだと思う、ということだ。

なにか行為を行う、なにか発言する、というのは「間違える」ということとほぼ同義だと考える。誰もが完璧に潔白ではあり得ないし、神のごとく完璧な情報と判断力をもつ者もどこにもいない。

(とはいえ、我々は美的感情に支配されているので、「あ、こいつ無理」と思ったら即「悪」のレッテルを貼って、それ以降は思考をストップさせてしまう、という傾向から逃れるのはとても難しい。「個人」という限定のなかでは、それは仕方がないと思う。でもそれは、否定ではなく保留でなければならないと思う。)

(倫理を美的基準で判断するのは危険だ。倫理的に問題がある人のことを「かっこ悪い」「クソダサい」「気持ち悪い」という言葉で非難することには大きな問題があると思う。ただし、我々が美的感情から決して自由になれないということは忘れるべきではないし、危険を察する直観的な第一センサーとして美的感情がある程度はよく機能するということも否定はし切れない。だが、それは個人としての行動選択に関する判断の基準としての有効性であり、美的感情の語彙で他者を非難してはならないと思う。)