●ポストモダンの哲学と、新しい実在論と言われている流れ(傾向)との違いのわかりやすい指標として、ニーチェという存在があるのではないかと思った。ポストモダンの哲学はおおむね親ニーチェ的であり、新しい実在論はおおむね反ニーチェ的である、のではないか。
●以下の引用は、以前ネットで拾った「ホワイトヘッド読書会イントロダクション」(発表者:飯盛元章)というレジュメの「1. 21世紀は、ホワイトヘッドの世紀になった」のすぐ下にかかげられているものからの孫引き。ホワイトヘッドのことはよく知らないが、新しい実在論の重要なルーツの一人と言われていることは知っている(たとえばスティーブン・シャヴィロ『モノたちの宇宙』でそういう風に書かれているし、エリー・デューリングはベルクソンとの比較でホワイトヘッド参照している)。
https://twitter.com/lwrdhtw/status/986960103692648449
《デカルトが先鞭をつけ、カントがとどめをさした認識論的転回によって、哲学のテーマは、存在そのものから、人間の認識にうつっていった。さらに、その認識の構造に、言語が深く関与していることがわかった(言語論的転回)ことにより、20世紀の哲学は、言語論が中心になっていく。一方で、奇しくも1900年に死んだニーチェの深甚な影響のもと、形而上学批判の嵐が吹き荒れる。こうした流れを背景にして、言語分析のにみ従事する分析哲学という大きな運動も台頭した。/ところがホワイトヘッドは、20世紀の、この哲学潮流に、まったく背を向け独自の世界を切り開いていく。かれがやろうとしたのは、存在論であるし、自身そう宣言しているように「形而上学」だからだ。これは、誰もがニーチェの尻馬に乗って批判していた当のものなのである。(中村昇「ホワイトヘッドの哲学」講談社、2007年、13頁)》