●「「オブジェクト」はわれわれが思う以上に面白い」(エリー・デューリング、清水高志柄沢祐輔)でエリー・デューリングが、相対性理論から「トポロジカルな同時性」という概念を導いている。「同時」というものをどう考えるのかは、とてもヤバい(重要な)問題だと思う。
http://10plus1.jp/monthly/2016/08/pickup-01-2.php
アインシュタインに言わせれば、それぞれの観察者、もしくは参照フレームにとって時間の順序というのはひとつしかないのですが、別のパースペクティヴがあり、実際には不特定の無数のパースペクティヴがあって、この最初の時間線とそれぞれ違ったふうに交差してくるのです。ですから、時間のグローバルな順序というのはないわけです。e1とe2は、絶対的な意味では同時だとは言えない。しかもなお、時空間の図で特に面白いのは、こうした時間の矛盾を、それらが一つの空間表象のうちに合流させているそのやり方です。諸々のパースペクティヴは共存しており、詳しくマッピングすることすらできるのです。今私が描いた図は、数多くのレイヤーと、諸関係の同時性を合流させています。違った角度から、空間−時間を切り取ってくることができるわけです。これらはすべて直線的な順序ですが、あなたはお互いに重ね合わされた直線的な順序の多様性を手に入れることになります。「時間の相対性」とはこうしたものなのです。》
《たとえばこのBが、遠い星まで旅して戻ってくるとします。これがAのタイムライン(あるいは〈ワールドライン[世界線]〉)で、カーブを描いているこれが空間を超えて加速したBのタイムラインです。彼らが再会したとき、Bの時計はゆっくり進んでおり、あまり時間が経過していないことが明らかになります。彼らの持続は一致しないのです! これは基本的に「双子のパラドックス」と呼ばれる状態です(AとBはそこでは双子の兄弟なのです)。しかし、二本の線で描かれた領域を見てください。この領域は、完全に客観的な(非−相対的な)意味における、トポロジカルな隔たりに相当するものです。私はこれを、共在(coexistence)の幅(束)と呼んでいます。あるいはお望みなら、数学的用語でsheaf(層)と呼んでもいいでしょう。そんなわけで、あなたはこのフロー、あのフロー……といった具合に、さまざまな変化や動きに対応し、めいめいの軌道にそった直線的な秩序をもつ、無限に多くのヴァーチュアルな持続のフローを手に入れることになります。それらをすべて総和し、包括するフローはありません。アインシュタインは、離れた距離のもとでは絶対的な同時性は存在しないと述べていました。空間的に離れた出来事どうしは、ある意味で時間的にばらばらなのです。しかし線Aと線Bの交差によって明確になる近傍のうちにあるならば、すべての持続とフローは共在しているといえるのでしょう。ですからこれは、新しい意味での同時性、トポロジカルな同時性です。そしてそれは、計量的な秩序によるものではありません。逆に、計量的な時間の根源にあるものです。
《それは双子が、共通の時間の基準を共有していないにもかかわらず、なんらかの現実的な意味において、たしかに彼らが出発と再会のあいだを同時的に、(contemporaneous)存在している、という事実を説明しています。厚みのある今、あるいはまた共在の幅と呼んでもいいでしょう。私はこれを、空間と時間において共にあることを考える方法が、瞬間的な同時性以外にもたくさんあるということの例証だと思っています。物理学者や哲学者はずっと瞬間的な同時性に憑りつかれていますが、今求められているのは拡張された同時性についての新しい理解なんですよ。》
相対性理論によれば、それぞれのパースペクティブ(系)により、時計の進む速さも違うし、同時性も、場合によっては出来事の過去と未来の順番も違う。この点については、例えば『空間の謎・時間の謎』(内井惣七)に分かり易く解説されている。相対性理論において基本の単位は光速なので、同時性を測る基準は光信号となる。でもここで言われている「トポロジカルな同時性」という時の同時性は、光速という物差しで測られる同時性とは異なっている。
双子のAとBがいて、一方が地球に残り、他方が高速で宇宙を移動して、戻ってくる。地球のAを基準とすれば、Bは高速で運動しているためBの時間が遅く流れているように見える。しかし、運動が相対的であるならばBを基準とすることも可能であるはずで、そうするとAが高速で遠ざかっているのだから、Bから見ればAの方の時間が遅く流れているように見えるはずである。では、このBが折り返して地球へ戻ってきて二人が出会った時、二人の年齢はどうなっているのか。これが双子のパラドックスと呼ばれるものだ。
このパラドックスは、慣性系といえる地球にいるAと、少なくとも出発時とターン時に加速系となるBとでは条件が異なることにより解決される。一般相対性理論により、歪んだ加速系の時空内にあったBの方の時間が遅く流れる。
ここで、地球上のAとそこから高速で離れてゆくBという二つの系の「同時性」を、Aを基準として光信号によって測る時のことを考える。それは、Aから発した光がBに届いて反射し、それがAに戻ってくるまでの時間を測り、それを2で割ることによって求められる。Bに光が届いた時間=Aに光が戻った時間−Aが光を発した時間/2、となって同時性が定義される。しかし光の物差しによるこの「同時」の測定法では、AにとってのBとの同時と、BにとってのAとの同時が食い違う。「同時」が「食い違う」とはどういうことなのか、という問題が出てくる。
(同時性はただ物理学的な問題であるのではなく、例えば、ライプニッツにとって「空間」とは「同時存在の秩序」であるとされることから、それは哲学的な問題でもある。)
このように、AとBはそれぞれが(かなりややこしく)異なる系の時空に属し、異なる時空のなかにいる。しかし、この二つの異なる時空の系が、出発と再会のあいだの「時間の幅」のなかで「同時的に存在していた」と考えることができる、とエリー・デューリングは言う。AとBとの別れから再会の「あいだ」を「厚みのある今」「共在の幅(束)」としてトポロジカルに考えることで、この幅の中で、二つのパースペクティブ(系)の交錯を考えることのできる、別のパースペクティブを得ることができる、と。
確かに、相対論的な同時性の食い違いは、二つの系が再会することで、いわば「ズレが確定される」ことによって回収されると言える。同時性の幅という概念によって、自律した二つの時空パースペクティブは、「再会すること」により、それぞれに対してそれぞれが、過去の自分と未来の自分の出会いであるかのような、分身として立ち現われるかもしれない。それは、再会の瞬間に起こる出来事なのではなく、出発から再会での幅を、厚みのある現在と捉えるときに生じことなのかもしれない。
双子のパラドクスはもともとウラシマ効果への懐疑としてあった(つまり、それが解決されることでウラシマ効果は真であることが示された)。再会した二つの系は、玉手箱を開ける前の過去の浦島太郎と、開けた後の未来の浦島太郎という、分身同士の出会いを生むと言える、のか。
(出発=分離と、再会=再結合。同時性の幅によって、他者に「自分の分身」として出会うということがあり得るのかもしれない。s-houseでは、視覚と身体とが、分離するだけでなく、分離と--ズレを含んだ---再統合が何度も起こるからこそ、そこに潜在的な視線としての分身があらわれるのかもしれない。)
再会することがなければ成立しなかったパースペクティブAとパースペクティブBとの同時性が、再会が生じることで、事後的に、過去にまで遡って(同時性の幅として)成立するということになる。あるいは、再会したものとして、事後から考えることにより、この同時性の幅をトポロジカルにマッピングをできるようになる。個々のパースペクティブの食い違いは相対的なものだが、このマップは客観的なものとなる。そして、このようなマッピングが可能になることにより、ある一つの出発と再会が、その近傍に、あり得たかもしれないヴァーチャルな別の出発と再会を招き寄せる、という理解でいいのだろうか。
(これはまさに、『トップをねらえ!』についての話ともいえる。)
追記。そういえば、AからみたBとの「同時」と、BからみたAとの「同時」が食い違うことを、一目で分かるように示すことが出来るのは、ヘルマン・ミンコフスキによって考案された作図によってだ。つまり「トポロジー的な同時性」とは、このような図を考案する(発明する)ことによって得られる、ということか。