●(ちょっと、昨日からのつづき)
昨日、MOTフランシス・アリスの「川に着く前に橋を渡るな」の巨大スクリーンの映像を観ていて、この人の作品にはいつも、人間が身体を持つことの「意味」とその「限界」と言う、相互にうらはらな感じが強く張り付いているなあと思ったのだった。このプロジェクトは、ジブラルタル海峡を、スペイン側とモロッコ側の両側から、子供たちが一列になって相手側に進んで行き(子供たちは手にサンダルでつくったボートの模型を持っている)、その列が(つまりアフリカヨーロッパが)、海の上の想像上の一点で交わることを「想起させる」というものだ。このようなコンセプトは美しいとも言えるし、凡庸だとも言える。
とはいえ、この映像が示しているのは、なによりもまず、海の水と子供たちの身体の官能的な感応であろう。強い光が射し、美しい海があり、それに感応する子供たちの身体がある。子供たちは嬉々として海に入ってゆく。カメラもまた海に入ってゆき、子供たちと同様に波を被り、光を受ける。しかし、子供たちから官能的な感応を引き出す水という物質は、次第に水位が上がってゆくにつれて、進行の障害物となり、壁となって立ちふさがる。海は、官能的な喜びであり、同時に絶望的な壁でもある。この感じは、トルネードに突っ込んでゆく彼の別の作品をも想起させる。カメラは水に呑まれ、子供たちの姿も見えなくなり、ただ、水と波の圧倒的な力が顕在化してくる。この映像が喚起するのは、想像上の一点によって双方の列が繋がるということよりも、ずっと強い「死」と「断絶」の感触であるように思う。地図でみるとかなり接近しているように見える対岸は、身体にとってはあまりに遠いし、溝は深い。
ある閾値に至るまでは、人の感覚は非常に生々しく外界の出来事を捉え、それに感応する。しかし、力が閾値を超えると、人の感覚が外界から受けとるのは、それが圧倒的な力をもっているということだけになる。トルネードに突っ込んで行き、ジブラルタル海峡を進んで行く身体が示すのは、ある一定以上の先には断絶があり、身体の能動性は消えるという事実でもある。そんなことは当たり前と言えば当たり前なのだが、彼の映像は、その、官能と断絶の閾値を、その境目の位置を捉えようとでもしているかのように見える。
そして、その先にまで行き得るかもしれない希望は、つまり希望が賭けられるイメージ、そのメタファーは、サンダルで作ったボートの模型という、あまりに弱い、ささやかなものでしかない。しかし、このあまりと言えばあまりなささやかさこそが、この作家のあり様であり、リアリティなのだと思う。それは、昨日の日記で触れた「レタッチ/ペインティング」でも、彼の政治的なデモンストレーションが、消えかかったセンターラインを塗り直すという、ほとんどそれとしては誰にも気づかれないようなささやかなことでしかなかったのと同様だと思う。ジブラルタル海峡をアフリカ側とヨーロッパ側から結ぶというプロジェクトは、一見壮大なものであるかのようにも思えるけど、実はそれは、彼の描く「かわいい」としか言いようのないペインティングと同じくらい、ささやかな、そして子供っぽいものなのではないか。トルネードや海の「身体を超えた圧倒的な力」を示す彼の映像と、それを軽々と超えるかのような彼の子供っぽいペインティングは、ある意味で矛盾しているが、その矛盾が裏表として貼り付いているのが彼の作品ではないだろうか。
身体は非常に豊かな官能性で周囲と関係するが、それはごく狭く、限られた範囲しかフォローしない。その限界を超えたところに作用するのは、この作家にとっては、本当に子供の妄想のようなか弱いイメージの力でしかない(それはおそらく「詩的」にも強いものとは言えない---実際、彼のペインティングに「強い力」があるとは思えないし、彼にとってはそうでなくてはならないのだと思う)。つまり、マッチョで強大な構築されたものは信じられないというのがこの作家のスタンスではないだろうか。それは、ある意味では安っぽいメルヘンと紙一重であると言えなくもないかもしれない。しかし、彼の作品の軽やかさ、とらわれのなさは、ここにかかわっているとも思う。この微妙さが面白い。
●夕方からいい感じで涼しくなったせいか、やたらと眠たい。作業をしていて頭が濁ってくるといつもするように、ほんの十分か二十分くらいうとうとしようと思って、アトリエにゴザを敷いて横になったら、三時間近くもがっつりと眠ってしまい、熟睡した後のけだるさとともに、今、自分がどこで何をしているのか分からない感じで目覚めた。目覚める直前は、もうずいぶん前にとり壊されてなくなってしまった大学の古い校舎のなかにいる夢を見ていたようだった。開けっ放しの戸からいい風が入ってきて、何度がつづけてくしゃみをする。今日中に戻さなければいけないゲラは戻した後だったからまあよかったのだけど、こんな時間にこんなに眠ってしまうと夜眠れなくなるな、と思った。
●「現代思想フォン・ノイマン特集の西川アサキさんのテキストを読んで、さっそく『心身問題と量子力学』(マイケル・ロックウッド)を買った。アマゾンのマーケットプレイスで思いのほか安く買えた。それにしても、「心身問題」と「量子力学」という、微妙に、そこはかとなく胡散臭い気配の漂う単語(心身問題や量子力学それ自体が胡散臭いということでは勿論なくて、それをことさら掲げることにまとわりつく何とも言えない---疑似科学的---香ばしさというのがあると思う、そういう香ばしさは大好物ではあるけど)が、何のひねりもてらいもなく二つどーんと並ぶと、相互作用でいっそう胡散臭さが増して、こんなタイトルの本はちゃんとした人に勧められでもしなければ怪しすぎてなかなか読もうと思えないよなあと思うのだった。いや、内容そのままの直球のタイトルなのだろうけど、あまりに直球であることによって、かえって胡散臭くみえてしまうということもあるのだなあ、と。
●『蟲師』は、レンタルDVDで少しずつ、ちびちび見ているのだけど、17話の「虚繭取り」が非常に面白い話で、その一つ前の「暁の蛇」もよくて、これはしみじみと素晴らしいものだと思うのだった。