2025-07-16

⚫︎東京都現代美術館「岡﨑乾二郎 而今而後 ジコンジゴ Time Unfolding Here」。

これまで生きてきた中で、一体どれだけ岡﨑乾二郎の作品を観てきて、岡﨑乾二郎の作品について考えてきたことか。そしてそれは、2020年の「視覚のカイソウ」展でいったん、ぼくにとってのピークを迎えた。決して、「岡﨑乾二郎という問題」が解決したわけではないが、それでも、ひとまずちょっとそこから離れて、別のアプローチから、いろんなことを考えたい。改めて岡﨑乾二郎の仕事と新鮮に対峙するためにも、そういう迂回が必要な時期に、ぼくはいる。

だがそれは、あくまでぼくの都合であり、ぼくの生のサイクルの問題で、そういうこととは関係なく世界は動いていて、今、東京で、規模の大きい展覧会が開かれる。ぼくはそれをちゃんと観られるのか、という疑問があった。というか端的に、ぼくには今、岡﨑乾二郎の作品を観ることができるという自信がない。とはいえ、実際に展覧会が開かれている以上、それを観ないというのは、あたかも強く拒否しているみたいな感じなにる。それは違うだろう、と思う。だけど、うまく受け取ることができるという自信はない。そのような、ふわふわというか、ふらふらした感じで観に行った。

(ぼくは、美術作品を観ている時には「言葉」が全然入ってこなくなるので、会場でキャプションや説明文をほぼ見ていないし、図録もまだ完成していなかったので、観た後での資料への参照などもまったくない状態でこれを書いています。)

⚫︎美術館の一階部分では、回顧展的に、これまでの仕事がまとまって展示されており(「あかさかみつけ」の大元になった作品が観られたのはとても良かった)、二階にリハビリの過程が挟まれ、三階に2022年以降の、現在進行形の新しい作品が展示されるという、明快な構成。

案の定、一階の展示を観ている時は、なんかうまく入ってこない(うまく受け取ることができない)なあという感覚があった。ただ、三階までの展示をひとまず一周した後に、再び一階に戻ると、徐々に作品が見えてきた感じがあった。

今のぼくには、ペインティングが新鮮に入ってくる。ただ、ペインティングと彫刻とはまったく別のものではなく、「同じものの切り取り方の違い」による「現れ」の違いなのだなあということは、強く感じられた。「切り取り」というのは、二次元で切り取るのか、三次元で切り取るのか、という次元数の違いのことであり、どういうディメンションの空間を媒体にするのかの違い、ということだろう。絵画という媒体、彫刻という媒体があるのではなく、二次元(空間)という媒体があり、三次元(空間)という媒体がある。そしてそれらは互いに変換可能である、と。

その上で、ペインティングをやり始めた頃(90年代)の「切断」を強く意識させる作品から、後の、ストロークのキャラクター性によって成立させる作品の間に、(ペインティングに留まらず、彫刻作品も含めた、作家としての)大きな転換点があったのではないかと感じた。

そして改めて、ストローク以降のペインティング作品の比類ない美しさにうたれた。この美しさは美術史上でも極めて例外的なものではないか。

これらの作品の特徴は、ストロークそのものが、(何かを表象するのではなく)対象そのものであり、しかし同時に形象でありイメージであり、キャラクターでもあるというところだろう。確かに、ストロークそのものをキャラクターとして絵画を成立させる作家として、ジャスパー・ジョーンズラウシェンバーグ、デ・クーニング、あるいはリヒターなどもいるのだが、ストロークそれ自身の自律性、キャラクター性、表現性の「強さ」として、岡﨑乾二郎の作品が圧倒的で、岡﨑作品を観た後でラウシェンバーグなどを観ると「燻んで」見えてしまう。

(ジャスパー・ジョーンズでもラウシェンバーグでもデ・クーニングでも、ストロークのキャラクター性は具象的イメージ、あるいは具体的事物との関係によって成り立っている場合がほとんどだ。それが悪いというのではなく、そこが「面白い」わけだが。しかし、岡﨑作品ではストロークそれ自体が自律して際立ち、キャラ立ちしている。そこが他にはない独自性であり、そのことと、比類のない美しさとは密接に関係していると思う。)

(リヒターのストロークは、ストロークのシミュレーションであり、ストロークそれ自身ではなく、また、美術史とその言説に強く依存しており、自律的でない。)

(あるいは、リー・ウーファンの「筆触」もまた、対象であり、形象であり、イメージであり、キャラクターである、とも言えるが、それらは非常に強く「場」に規定されており、ひとつひとつが皆「似過ぎ」ていて、同質的であるしかない。ロバート・ライマンの「筆触」なども同様だ。だが、岡﨑のストロークはキャラとして視覚的に多彩であり、かつ、ひとつひとつが異なる組成を持ち、極めて複雑な空間性を内包している。それぞれに独自の複雑な空間を内包しているストロークたちが、いくつも集まってひしめき合い、さらに複雑な空間性を形作っている。それら、自律性の高いストロークたちの集まりが、結果として、ある複雑な空間性を立ち上げ、場を作っているのであって、「場」に規定されてストロークがあるのではない、というところも、とても重要だ。故に、フレームの組み合わせを事後的に入れ替えることも可能になる。)

(厳密に言えば、どちらが先ということなく両方が同時に生成されている、ということだろう。)

⚫︎だが、そのような、一階にあった、極めて美しく完成度の高い作品たちと、三階にあるペインティングとは、いきなりまるで違っていて、まず、そのことにショックを受ける。最初は、ぼくにはそれが衰弱にしか見えなくて、うーん、という感じになってしまったが、幾つも観ていくうちに、これは新しく、根本的に「違うこと」をやろうとし始めたのだな、というふうに思えるようになる。

まず、ひとつひとつのストロークにおけるキャラクター性がとても弱くなっている。それは、自分自身として際立つというより、半ば、背景に溶け込んでいこうとしている途中であるかのようだ(単純に、メディウムの量が増え、色彩の透明度が高くなっているということでもある)。さらに、ひとつひとつのストロークの持つ複雑さの度合いも低くなり、ストロークとそれ以外の境界(ストロークの縁)も、はっきりとしなくなっている。そして何より、一階にあるペインティングではほぼみられなかったことだが、ストロークと別のストロークとを、層的に重ね合わせるということが多用されるようになる。重なることなくひしめき合っていたストロークたちが、半透明になって、複数の層を作るように、いくつか重ね合わされる。

(「普通の絵画」に近くなった、とも言えるが。)

その結果として、幾つもの個々のストロークたちと、それを支えている基底面とが、押し合いへし合いでひしめき合うというよりも、それぞれの要素が「溶け合う」かのように見えるようにもなっている。そのことが最初は、弱さや衰弱に見えた。実際に「弱い」としか言えない作品もあると思う。一階のように、完成度の高い作品が粒揃い、というわけにはいかない。しかしそこからは、何か新しいことを探っている、探りつつある、身体を丸ごとかけた探索の、その手つきをひしひしと感じることができる。そして、あ、これはその「何か」に突き当たったのではないか、という作品もある。それによって、ぼく自身も、一階にあった作品を観る時よりも前のめりになって観る感じになる。

ぼくに、この「何か」が明確に掴めたとはとても言えない(ああ、もう一回くらい観に行ければなあ)。ただ、シビアな緊張よりもある種の「緩さ」を優先し、ストロークの強い「キャラ立ち」を抑えめにして、取り止めのない感じを導入することで、かえって、画面全体の制御がより難しくなっていることは確かではないかと思った。キリッと強く立つものが緊張を持ってひしめき合うというよりも、取り止めのないものと取り止めのないものとを組み合わせて、取り止めのないままで、しかしだらっと流れてしまったりはしない、ある充実した状態を作り出そうとしているようにも思われた。

⚫︎今回の展覧会で最も感銘を受けたのが、最後のところにあった彫刻群だ。人が何かを作ろうとする、というか、人が生きていて、身体があって、「動こう」とするときに、「動き」を惹起する、その根本にあるような「うねり」や「ねじれ」が、そのままダイレクトに、ポン、と表に現れているような感じ。極めて抽象度の高いものと、ごく素朴に「手」や「象」を作ろうとしたものが同居しているというのにも説得力があり、実際、人が生きて動いている時には、抽象も具象も違うものではなく、別に区別などしていないのではないかと思う。

特に、巨大な彫刻に感銘を受けたのだが、一緒に観ていた人が「(「日曜美術館」で観たが)これは、手元サイズで粘土で作ったものをスキャンして、3Dプリンターで拡大したらしいよ」と言ったので、一瞬、え、と、いなされたように幻滅しそうになるが、すぐに、それこそが岡﨑乾二郎ではないかと思い直し、逆に改めて感心した。オリジナルのスケールを蹂躙するかのように極端に拡大したり(逆にミニチュア化したり)して相対化することによって、われわれは、このわたしの、このスケールの、この身体を抜け出ることができて(それとは「別の身体性」を得ることができて)、それによってこそ、身体を動かしている「動き」の根本にある抽象的な力に触れることができるのではないか。これは岡﨑乾二郎が一貫して追求していることだろう思う。