●『ラッセルのパラドクス』(三浦俊彦)という本を読んでいたのだが、読んでいるうちに混乱していつの間にか、「ラッセル」という存在を「ラッセン」という音として認識してしまっていたということを、「あれ、ラッセンのはずがラッセルと誤植されていて面白いな、サーファーで画家で分析哲学者かよ」と思い、そのすぐ後に「いや逆だ、間違っているのはぼくの頭のなかの方だ」と気づいた、という出来事があって、気づいた。
分析哲学は、「言語」哲学なのではなく「論理」哲学なのだ、という主張がとても面白い。
●以下、この本から引用。あらゆるもの(語の意味)は私秘的であるが、論理の「形式」だけは公共性、普遍性をもつ、という主張が面白い。逆に、公共的知識は、曖昧な日常語によるコミュニケーションによってしか可能ではないので、決して厳密でも普遍的でもあり得ない、ということになる。
≪こうして、センスデータへの指示に立脚したラッセルの理想言語は、徹底的な「私的言語」となってしまう。しかも私的であるにはとどまらない。「瞬間言語」でなければならないのだ。≫
≪理想言語というと、われわれは普通、論理記号や数式を思い浮かべ、そういうものは日常言語よりも客観的かつ公共的であると考えるだろう。しかし面白いことに、ラッセルによれば、逆なのである。理想言語は、確かに論理と科学のための言語なのだが、それゆえにこそ徹底的に私的な言語でなければならないのだ。公共的知識はむしろ、日常語によるコミュニケーションでしか実現できない。社会的な拡がりは、理想言語は持ちえないし、持ってはならないのだ。≫
ラッセルは言う。「ある人が語を用いるとき、別の人がその語で意味することと同じことを意味することはできない。これは不幸なことだと言われるのを私はしばしば耳にした。だがそれは間違っている。人々が語を使って同じことを意味するのだとしたらそれこそ致命的なことになるだろう。あらゆる交際が不可能になり、言語は考えられるかぎり最も無益で無用のものとなるであろう。なぜなら……異なる人々は異なる事物を見知っているため、自分の語に各々全く異なる意味を結びつけないかぎり、互いに話などできなくなるだろうから。私たちは論理についてだけ話をすべきだということになる――これは全く望ましからぬ結果ではないが」(「論理的原子論の哲学」第二講)。≫
≪右の引用文の、論理についての最後の一言は、論理形式や論理的対象は万人共通の直知対象でありうる、というラッセルが考えていることを示す。ラッセルはもともと、論理実証主義ウィトゲンシュタインのように論理的真理と経験的真理を峻別する路線をとりはしなかったが、それでも論理といえるほど普遍的構造に関わる情報に関しては、公の共通理解があることを認めていたわけだ。そのかぎりで、ラッセル的理想言語ですら公共性をもつ。「または」「でない」「もし」のような語の意味は、決して私秘的ではないのである。≫
(意味――センスデータ――はバラバラでも論理形式「だけ」は普遍であり得るという考えに対する批判として、例えばクリプキによる「プラスとクワスが区別できない(論理的な「規則」に従っているかどうか分からない)」というような「懐疑」があり、さらにその、クリプキ的な「懐疑→暗闇の中への跳躍→結局は共同体を要請するしかない」という経路への批判として、「内部観測」のような概念がある、という理解でいいのだろうか。まあ、それはこの本とは別の話だが。)
●『ラッセルのパラドクス』を読んでみようと思ったのは、『認知科学への招待』(苫米地英人)という本を読んだからで、この本で著者が「西洋哲学」と言っているのは要するに(大陸哲学ではなく)分析哲学のことで、それは哲学+数学(というより、哲学=数学)なのだと言っていて、そして認知科学というのはその分析哲学が発展したものにコンピュータがくっついた(哲学+数学+コンピュータ)「人工知能」の研究がベースになっているのだということが書いてあって、そうか、分析哲学人工知能につながっているのかと思ってちょっと興味が出たところで、以前、途中まで読んで放棄してあった『ラッセルのパラドクス』が家にあったことを思い出して、読み直してみたら、なるほどこれは人工知能っぽいなと思って、面白かったのだった。
●個別のセンスデータと、それらを関係づける論理形式だけがあるとするようなラッセルの思想は、例えば、「わたしがイスを見る」というとき、見ているわたしも見られているイスも存在せず(「わたし」も「イス」も「論理的虚構」である)、ただ「何かによってみられた感覚」だけがあるとする考えにまで発展する。そして「わたし」も「イス」も「空間」も「時間」も、すべてこの「感覚=論理的原子」をどのような集合として束ねるのかという「論理」によって生まれることになる(だから「論理的虚構」と言われる)。ここまで行くとかなり「現代」っぽくなる(というか、映画っぽい)。
≪私が椅子を見ているある瞬間の椅子の見え(センスデータ)は一つの特殊者。これは論理的原子である。そして、この特殊者以外に、その瞬間には椅子の隣にテーブルが見えていたり、外のオートバイの音が聞こえていたりする。それらを全部集めれば、その瞬間の特殊者の集合(その瞬間の私)ができる。そのような集合をあらゆる瞬間について作って、それらを系列にまとめれば、「私」が出来上がる。≫
≪椅子が私に見られているある瞬間の外見(センスデータ)は一つの特殊者。この特殊者以外に、その瞬間には私の隣の人にその椅子が見えていたり、部屋を飛ぶハエの目にその椅子が映っていたりする。それらを全部集めれば、その瞬間の特殊者の集合(その瞬間の椅子)ができる。そのような集合をあらゆる瞬間について作って、それらを系列にまとめれば、「その椅子」が出来上がる。≫
ラッセルがセンスデータを出発点にする経験論者でありながら、観念論に陥らず実在論者でありえた秘密は、「論理」という客観的システムによって経験を組織化する中性一元論にあった。論理は語法である以前に実在だ、という原-ラッセル的枠組みにおいてこそ、ラッセル哲学を経験論的実在論として捉えることができるのである。≫
≪心がセンシビリア(可能なあらゆるセンスデータのこと)の論理的配列だとすると、いかなる種類の心も必然的に存在することに注意しよう。たとえば今、私がここに、A,R,U,V,D,W,J,L,M,Bと適当に書く。この十個の文字の系列から、次のような系列を考えよう。「偶数番目の五個の文字を順に並べ、その後に奇数番目の文字を逆に並べて付加する」。そうして出来る十文字列は、実際に誰も書き留めなくても、つまり物理的に実現しなくても、「論理的に」存在する。センシビリアの系列も同様だ。類似したセンシビリアをいろいろな仕方で並べた結果できる「心」はすべてそれなりに「論理的に」存在する。中性一元論では、心はセンシビリアの論理的配列に他ならないのだから、ありとあらゆる可能な心が、必然的に存在することになるのである!≫
≪論理的実在としての心、という意識論は、コンピュータ・プログラムとしての意識、という見方に直結する。私たち自身が生物学的意識なのか人工プログラム上の意識なのか、絶対に区別できない、という「シミュレーション論法」を唱える学者もいる。ただしシミュレーション論法では、プログラムそのものの物理的運転が必要とされるが、中性一元論は、意識活動のためにはプログラムの論理的実在だけで十分とする。≫
●ここまでくると仏教にずいぶん近くなる感じ。