●例えば、「甘い」とか「赤い」とかいうのは直観的な感覚だけど、「おいしい」とか「美しい」とかになると、感覚というだけでなく(感覚であると同時に)そこに評価(価値)や解釈が混じってくる。いや、本当は「甘い」とか「赤い」とかさえ一次的な感覚データではなく、様々な要素が混じって構成されているのだろうけど、とりあえずここではそれは問わないことにする。
では、快/不快というのは、「甘い(赤い)」の方に入るのか、「おいしい(美しい)」の方に入るのか。快/不快は価値判断であるから「おいしい」の方に入るようにも思えるけど、しかしそうではなく、(無関心な状態から)快/不快という感覚が立ち上がることによって「甘い」という認識へと促されるのではないかと思う。つまり、快/不快の波立ちが最初にあるからこそ「何か」に対する関心が惹起され、それによってそれと共に感覚「甘い」が図として立ち上がり、その図が「おいしい」と解釈される。
(解釈といっても、意識的に「読む」という感じでは必ずしもなくて、自動的に働くことが多い。)
でも最初にある快/不快は明確な意識や表象をもっていなくて、しかも快と不快は矛盾せずに同時多発的にあるように思う。例えば、「(快50+不快20くらいの割合で70の感覚的強さ)ざっくりと言えば快→甘い」のような感じ。そして、快/不快と「甘い」とは切り離せない感じでつながっているように思う。だけど、そこから「おいしい」へとは滑らかにはつながっていないように思う。「(快50+不快20で70の感覚的強さ)ざっくりと言えば快→甘い」が「おいしい」へと解釈されるためには、「(快50+不快20で70の感覚的強さ)快→甘い」とは出自の異なる、別の文脈上にある多数の別の記憶や感覚データと突き合わされたり組み合わされて、メタ的に再構成される必要がある。つまりここで別の通路(別の階層)からの入力と混じって別の階層の感覚が生まれる。「(快50+不快20で70の感覚的強さ)ざっくりと言えば快→甘い…/(いろんな要素)/…おいしい」という風に。だから最後の解釈が「まずい」となるかもしれない。繰り返すが、この解釈の演算過程は必ずしも意識化されるわけではない。
ここで、「おいしい/まずい」という解釈を「快/不快」と言い換えることもできる。ならば、「(快50+不快20で70の感覚的強さ)ざっくりと言えば快→甘い…/(いろんな要素)/…不快」ということにもなり得る。まず最初に「ざっくりと快」だったデータが、「不快」として解釈され、味わわれることもある。解釈以前の(分子的)快/不快と、解釈によって生じる(構成的)快/不快とは必ずしも一致しない。
例えば、SMなどで、「痛い」が「快」として味わわれる時、その組成はどうなっているのだろうか。それは一次データから「快」で、つまり「(快500+不快200で700の感覚的強さ)ざっくりと言えば快→痛い…/(いろんな要素)/…快」となっているのか、それとも一時データとして不快だったものが快として解釈されることで反転して「(不快500+快200で700の感覚的強さ)ざっくりと言えば不快→痛い…/(いろんな要素)/…快」という風になっているのだろうか。
「痛い」という感覚がはじめから「快」とともに立ち上がるのか、それとも、不快な感覚として立ち上がったものが別の文脈と突き合わされることであらためて「快」と解釈し直されるのか。この二つの「快」は、ずいぶんと味わいが違うように思われるのだが。
(必ずしも、一次的感覚表象が「甘い」で、解釈された感覚表象が「おいしい」となるとは限らなくて、おなじ「甘い」でも、一次的な「甘い」と解釈的な「甘い」がある、とも言えるかもしれない。さらに、複数の解釈的感覚表象があつまって、より高次の解釈的感覚表象が生まれることもあるだろう。)