●グレアム・ハーマン「代替因果について」(岡本源太・訳「現代思想」2014年1月号)の読書ノート。第3節、存在論形而上学オブジェクト指向。ビー玉とテーブルの哲学。


3.存在論形而上学


存在論」と「形而上学」には確固とした違いはない→哲学者それぞれが目的に合わせて再定義する。
ハイデガー(「存在論」いかに存在が人間に対して開示されるか「形而上学」特権的な存在者から万物を説明する哲学への罵詈雑言)
レヴィナス(「存在論」存在者たちの全面戦争「形而上学」抗争を越えた無限の他者性)
など……


○ハーマン
存在論」すべての対象に共有された基本的な構造上の特徴の記述
形而上学」特殊なタイプの存在者の根本的な特徴の議論
◇パズルのピース(どの対象もそこから逃れられない)→存在論
「時間と空間」→「存在論」(永遠の非空間的対象でさえ、たんに「物理学的な時空」を越えているにすぎない)
「他の対象から区別される対象(人間・言語・芸術・神…レストラン・ほ乳類・スポーツリーグ・哲学)」→「形而上学」の主題


存在論」「形而上学」の区別の理由
→「感覚的対象」は、「志向的な全体」の内部にしか存在しない
→志向性を人間だけの特徴にしてしまうと、「プラスチック」や「砂丘」には「感覚対象」のための場所がなくなってしまう(「感覚的対象」が「人間の知覚」の「形而上学」になってしまう)。
→「志向性」は、対象一般の存在論的な特徴だ


「真率さ(=志向性)」と「意識的な認識(思考と知覚への没入)」を混同しない
→〈真率〉=「実在的対象」と「感覚的対象」の接触=志向性
◆われわれがテーブルの上のビー玉を見る
○「われわれ」(その光景を見ようとして、それ以外の重要な可能性を我慢する)→真率
○「ビー玉」(炉で溶けたり、縦坑を突進するのではなく、「テーブルの上に置かれている」ことに真率している)→真率
【ビー玉に思考や感受の能力があるのか、ではなく、「実在的対象」としてのビー玉が、「感覚的対象」としてのテーブルの表層に「出会う」のか、が問われている】


1,ビー玉の実在が、ある「志向的実在」の内部に置かれていて、2,その「ビー玉実在」を、いっときある状態に固定する「別の存在者」と接しているが、3.その「存在者」は実在的存在ではない(実在は脱去するので)。
4.つまりそれは感覚的対象であるはずだが、5.感覚的対象は常に実在に付随するもので、自由に漂うものではない。つまりその時、5.ビー玉は真率に感覚的対象(テーブル)に没入している、ことになる。
→《風景は、人間の志向性と基本的な構造の特徴を共有している》


○ビー玉はテーブル上にある(それ以外の部分は空気)。
○ビー玉の「生」において、テーブルと空気は隣接している。
○ビー玉のまわりを蝋で覆ったとしても、ビー玉にとっての「テーブルの性質」はかわらない(同じ志向対象である)。
◎ビー玉とテーブルは対照的であるが、テーブルの「冷たさ」「滑らかさ」は偶有的である→テーブルをざらざらにしたり、熱くしても、ビー玉の志向対象としてのテーブルは同一である。
◇ビー玉は、「テーブル」と「テーブルの本質的な性質(堅さ、高さ、強さ、穴がない等)」を区別できるのか→後述


すべての実在的対象は、「感覚的対象の風景」の内に住まう
→「感覚的対象の風景」(「新しい実在的接続」が生じるようなプレイグラウンド)
→だが、「人間の認知に特有なもの」は、「感覚的対象」よりももっと複雑な哲学の水準にある。


《すべての「接続」はそれ自体「対象」である》
(すべての「関係」はそれ自体対象である、の厳密化→「「五つの関係」から、「包含」「真率」「隣接」「無関係」を除く)
◆代替的につながった、二つの実在的対象は、一つの「新しい対象」を形成する
→新しい「内部空間」を生み出すから。


二つの対象→代替接続→新しい一つの対象→新しい統一された全体
○その「全体」は、外部からは計り知れない内部をもち、《「感覚的対象」に真率に没入する「実体的対象」》によって、その内部を満たす
→すべての《接続》が【対象】であり、すべての【対象】が《接続》の結果である


◆だが(「接続」が生じるのは「二つ」の実在的対象の間でだけである)
→「わたしと感覚的な松の木の関係」それ自体は【対象】ではない(たんに、異なる対象間の「対決」である)
→「志向」は「関係」そのものではなく、「関係の内部」すぎない。
→「わたし」と「実在的な松の木」との間で起こる(説明し得ない)「代替融合」があって、そこから「志向」が生じる(志向は関係=接続の結果であって、関係そのものではないということ?)


「わたし」と「感覚的な松」の関係は「真率」であり、全面的な接続ではない
→この「真率(関係)」もまた一つの「対象」となり得る
→(わたしが「わたしと感覚的な松との関係」を分析するとき、その「関係の本姓」が視界から脱去し、どれほど分析しようと汲み尽くせなくなる→「〈わたし--松〉関係」が「実在的対象」になり、わたしが分析するものは、関係=真率の「感覚的対象」となる---《ハンマーが取り扱いから脱去するように》本来の真率は分析から脱去する)
→「わたし--松」関係を分析する《より退屈した》わたしは、〈「わたしの分析」の分析〉をしようとして、「わたしの分析」もまた対象に変えるかもしれない。
◆これは無限後退ではない---ペダンティックに歪んでゆく分析者たちによって嫌気がさすまで「対象」が生み出されつづける
←最初に戻る「わたし」と「感覚的な松」の関係は、より大きな要素の内部での、「区別された要素」同士の関係(真率)である
【以上が、真率な関係を「実在的接続に変える方法」を示している】


《数マイル離れた谷間の家は、わたしがそれを目撃する限りで、わたしに「直接」触れる》
→「知覚」の領域では「距離」はない---大なり小なり「強度」によってわたしに「直接」触れる
→「距離」は(知覚を越えた)「実在的対象」たちの「間」にあり、故に、わたしたちはなにものも「踏み越える」ことはできない
モグラのように、たんに、無数の地下洞窟(感覚対象たちの万華鏡)へと、降りたり潜ったりするだけだ


人間の死→ペット・昆虫・星・文明・経営不振の店などの死と同等の「無数にある悲劇的な出来事」の一つにすぎない---死の崇拝の排除