2020-11-22

●世界がこのようになってしまうことにはなんとも耐えがたいものがある。底が抜けてしまった感。ここには、美に対する醜があるのではなく、あるのは美への根本的無関心であり、軽視であり、そしておそらく無意識の内での敵視なのではないかと思う。悪趣味なのではなく、趣味がない、あるいは、「趣味がある」ことが嫌い、というか。

《独特のネーミングセンスと色遣いの高級食パン店が日本中のあちこちに増殖しているの、本当に街の雰囲気を破壊するのでやめてほしい。一回買ったけどそれほど美味しくもなかった。》(風のハルキゲニア)

https://twitter.com/hkazano/status/1330322649785004032

(写真を見ているだけで、生きる気力とか活力とか喜びとか、あるいは怒りとか悲しみとか、そういうものをたちあげようとするその基盤となるものを、乾いた砂のようになし崩しに崩れさせられてしまうような、破壊的な言葉とデザイン。)

とはいえ、こういうものを受け入れざるを得ないということが、現代の日本の経済状況(資本主義のありよう)の必然としてあるのだろう。だから、このような商売をすること(人)を批判することには、あまり意味がないし、上から見下すのは最悪だ。

(だが、嫌なものは嫌だ、ということは全力で表明しておきたい。)

やはり、マティスの言うような「知的労働者のための安楽椅子」としての芸術が必要だと思う。それは現実逃避なのかもしれないが、現実を受け入れ、そのなかで生き、そしてさらに、現実を変えようとする望みももつのだとしたら、そのために必要な「元気」を得るためにも、現実逃避(としての美・安楽椅子)は必要なのではないか。

(いや、決して現実逃避などではなく、それ---美・安楽椅子---こそが「現実の底」を下支えするものであるはずではないか。)