(一昨日からのつづき、柴崎友香『ドリーマーズ』について。)
●でも、一昨日からのつづきの前にちょっとだけ。『おろち』をDVDで観たのだが、これがとても面白かった。この作品は、楳図かずおの映画化でも、鶴田法男の監督作品でもなく、脚本の高橋洋の作品というべきものだと思う。鶴田法男は、自身の作家性を抑制して、高橋洋の脚本に奉仕していて、それがすごくうまくいっているように思う。時間の内部で生きるしかない人間にとって、時間の外に存在するイメージは、「運命」として、「呪い」として作用する。ここで「血」の意味するものは、時間の外にあって繰り返し回帰してくるイメージの同一性のことだろう。時間とイメージとの相克が、人間にとっていかに重たいものであるのか。それを、時間の内側と外側を行き来する「おろち」という存在を媒介とすることで形象化している。
●現実も夢も、感覚として与えられるものの質としては基本的に違いはなく、つまり本来なら感覚それ自体だけで現実と夢とを峻別することはできない。ある感覚が「現実」であると判断できるのは、それが普通に「現実」と呼ばれるものであるという妥当性が確認されることによる。つまり、ある程度の恒常性、再帰性が認められ、因果関係が参照可能であり、かつ(他者と共有される)「常識」にかなっていること等々。おそらく最も重要なのは「常識」で、それはわざわざ意識的に参照されなくても、自動的に参照が行われ、それが現実かそうでないかを自然な感触として峻別する機能をもつ。しかしこの常識は、それほど確固としたものでも確実なものでもなく、絶えず揺らいでいる。常識は、常に身の回りの出来事や他者との関係のなかで、働きかけに対する「反応」をフィードバックすることで微調整され、そのつど確認され、繰り返し更新されることによって維持される。常識の自然な作動は、現実を自然に「現実」として感じられる現実感としてあらわれる。これは普通にリアルとかリアリティとか言われているものとは違って、むしろ「空気」と呼ばれるものに近いだろう。ある空気のなかに存在するとき、それが現実であるのは当然のことであり、人はそれをいちいちリアルだとかリアルでないとか思わないでいることができる。強い、あるいは生き生きとした、リアリティを感じるとき、むしろ人はそのような「空気」からのズレを意識しているのだ。
「ドリーマーズ」の冒頭の、深夜の地下鉄のなかの光景の面白さは、それが嘘臭くなってしまわないぎりぎりのところで「現実感」からの浮遊が実現されていることによるだろう。それがはじめから嘘(夢)であると分かれば、人は「何でも受け入れる体勢」になってしまうので、そこで何が起こっても大して驚くことはない。それが一定の現実感の内部にあり、現実という妥当性との参照可能性があり、しかし同時に、それが事前に予想可能な現実感という紋切り型を裏切るような展開(深夜の地下鉄にチアガール!)をみせるとき、そこに、手触りのあるリアリティと動きの機敏さを見て取り、「面白い」と感じるのだろう。そもそも深夜の地下鉄という空間は、労働や家庭といった秩序の場でもなく、夜の歓楽街のような、快楽と放蕩の場所でもない。友人と別れて一人で帰途につく場合、プライベートな友人関係からも切り離されている孤立した場でもある。そのような場所で人を現実に留めているものは、せいぜい、電車があるうちに家に帰らなければならないという必要性くらいのものではないだろうか。それは現実でありながら、限りなく現実感の緩んだ、夢に近い空間であろう。このような空間で、現実感から切り離された現実の諸細部は、自分自身が納まるべき位置からはみ出し、とりつくしまのないリアリティを発現する。このような時、ほとんど夢のようになった現実の知覚は、記憶と同等なものとなって、両者の区別があやしくなって交じり合う。
父の一周忌のために故郷に帰っているらしい「ドリーマーズ」の主人公《わたし》は、地下鉄を降り、今夜は妹夫婦の住むマンションに泊まるようだ。
《マンションは十階建てで、九階のボタンを押したらエレベーターはちゃんと九階で止まった。二歳から三年前まで住んでいた部屋も十階建ての建物にあって、その七階だった。わたしが一人だけでいるときはそこのエレベーターは必ず一階で待っていてくれると信じていた。たった今、このエレベーターもちゃんと一階にいて、わたしの指示通りに九階で止まってくれた。ここのエレベーターとも気が合うようだ。七階で降りることに慣れていたから、九階に行くとき、いつもなにか間違えているような気がして不安になる。》
この、まわりくどい割りに大したことは何も言っていない文章がなぜこんなに面白いのか。ここで言われていることは、(1)妹夫婦は十階建ての九階に住んでいる、(2)子供の頃から住んでいた部屋は十階建ての七階にあった、(3)子供の頃から住んでいた建物のエレベーターは、自分が一人のときは必ず一階で自分を待っていてくれた(そのように信じていた)、(4)妹夫婦の住むこの建物のエレベーターも、たった今、一階で自分を待っていてくれた、(5)七階で降りることに慣れているから九階まで行くと間違えているような気になる、ということだ。(1)と(4)は、今、ここであり、(2)と(3)は記憶で、(5)は現在と記憶が入り混じったもので、ここでは、今、ここと記憶とが、十階建ての建物とエレベーターという共通する要素によって、どちらが主でどちらが従とはいえない、ほぼ同じ強さで重なりあっている。ここで重なり合うのは場所の知覚と記憶だけではなく、子供の頃に住んでいた建物でエレベーターを待っていた「子供の頃の気持ち」が、現在の《わたし》の気持ちと同等に並べられ、それによって、現在の大人になった《わたし》にも「子供の頃の気持ち」が混じりこんで《このエレベーターもちゃんと一階にいて、わたしの指示通りに九階で止まってくれた。ここのエレベーターとも気が合うようだ》というような、幼稚ともいえる感じ方が発生する、ここでは、その感情の「構成=発生の有り様」が書き込まれているのだ。ここで《わたし》にとっての現実は、記憶の干渉を強く受けることで、通常の現実感(今、ここ)から大きく逸脱している。
しかし、このような現実感からの逸脱は、行き過ぎると、昨日書いた「クラップ・ユア・ハンズ!」のスーパーの場面やそれにつづく夢の話のように、世界を恐怖の場へと、あるいは、冷淡で無関心な場へと変質させてしまう(この感触は『星のしるし』に非常にリアルに書き込まれているように思う)。実際、ここでも、七階に慣れていた《わたし》は九階の妹夫婦の部屋に行くとき《いつもなにか間違えているような気がして不安になる》。
この《間違っているような》気持ちとは、たんに、七階に行くべきなのに九階に向かっているというようなこと(個々の事実に関する間違い)ではないはずだ。それは、九階に妹夫婦の部屋があるという、そのこと自体が間違っているというような感覚であるはずで、つまりそれは、《わたし》が「現実」だと思っている様々な事柄の関連を支えている「現実感」そのものが、そもそもその根底から「勘違い」のようなものだったのではないかという不安であるはずなのだ。それは、世界を支えている秩序そのものの崩壊の予感のようなものだろう。この連作集の根本には、このような不安が底に横たわっているように感じられる。
「夢見がち」の《わたし》も、幸太郎の話す不思議な経験を聞きながら次のように思う。
《さっき秋田くんが言いかけた「怖い話」の続きをぼんやりと想像したときもそうだったけれど、間違った電車に乗っているような気がしてくる。行き先なのかスピードなのか周りにいる人なのか、なにが違っているのか、わからないけれど。》
行き先とかスピードとか、そのような個別の間違いではなく、電車に乗っているという事実それ自体が、何かの間違いのように感じられてくる。「夢見がち」では、大阪環状線の福島駅から外回りの電車に乗って鶴橋まで友人たちと焼肉を食べにゆく道中が、非常に克明に生き生きと描かれている。そこには、現実と明確に対応関係がある具体的な地名が書き込まれ、窓から見える光景や車内の様子なども、実際にその場所を知っている人にも納得できるような形で書き込まれているはずなのだ。にもかかわらず、それが克明に、明確に、描かれ、認識されればされるほど、その感覚的な鮮やかさが増せば増すほど、そもそもその根本を支えているはずの秩序そのもの、現実感そのものが夢のようにあやしくなってくる。現実の明確さは現実感を必ずしも支えない。夢のなかで、必死になって何かをしても、その世界が突如ひっくりかえってすべて意味がないものになってしまうような、世界そのものがひっくりかえるのではないかという感触(不安)は、今、自分が目にしているものが夢ではないと「知って」いるとしても、その感触そのもののリアリティが無効になるわけではない。
このような感覚は、そもそもこの小説では幸太郎のする、子供の頃の不思議な経験として語られている。自分の家であるはずなのに鍵が合わず、家から知らないおばあさんが出てくる、という。しかし「夢見がち」では、その《間違》いという感覚は、世界の恐怖の場への転換、世界の冷淡な疎遠化へは発展しそうもない。むしろ、その不思議さそのもの、不思議さの感触がじっくりと味わわれているように思われる。何かが根本的に《間違》っているんじゃないかというこの感触は、必ずしもネガティブなものではないようなのだ。むしろ、この世界が夢であるかもしれないことこそが、幸太郎のする不可解な話の方こそが、この世界のリアリティの根本にあるかのようですらあるのだ。「夢見がち」という作品が、この連作集の「底」を支えているかのように感じられるのはそのためだ。
《「なんていうか、もしかしたら、おれ、ほんまはやっぱりあのときに死んでたんちゃうかって、思うことあるねん。そのあとの十五年って全部夢なんちゃうかって。今、こうやってしゃべってるのも」
わたしは幸太郎を見上げた。幸太郎も外を見て、眩しそうに少しだけ目を細めていた。》
《「ようわからんけど、たまに。まあ、本気でそんなこと悩んでるわけちゃうし」
「そんなん、初めて聞いた」
わたしは幸太郎と七年前に友達になった。
「そうやろ」
幸太郎は、どこか得意げな感じで大きい口をにっと横に引っ張って笑った。幸太郎のこういう顔が好きだと、わたしは思った。後ろの女の人がまたくしゃみをした。》
幸太郎が、そのような感触を持って生きていることは、彼を外から見ているだけでは知ることができない。たとえ、長い間友人であったとしても。そして、そのような話を聞いた《わたし》もまた、この世界を支える根本的な現実感が揺らぎはじめるのを感じる。しかし、とはいっても、幸太郎は今、《わたし》たちにその話をしたのだし、《わたし》も、彼の言っていることの感じが理解できるからこそ、自身の現実感が揺らぐのだ。現実感が揺らぐことこそがリアリティの源泉であり、その感じが誰かの同意を得るとき、世界は恐怖の場へと雪崩れることはない。「ドリーマーズ」の豪華客船は、《エラーっぽい》からこそリアルなのだし、それに魅了される。この作家の小説にとって、人になにかを語ること、見たものを描写することは、だからこそ重要なのだ。《わたし》は、語る《幸太郎を見上げ》、幸太郎の視線を追い、《幸太郎のこういう顔が好きだ》と思う。そのまなざしの対象である幸太郎が現実の存在だろうと《間違》い(夢、幽霊)だろうと、どちらにしても(どちらと決められないとしても)、そのとき、世界は恐怖の場へとは転換しないだろう。それは幸太郎のまなざし、そして幸太郎へのまなざしによって支えられる。そしてそれを別の誰かに向かって「書く」。この作家の小説において、世界の存在を肯定し、世界の根本にある現実を、そのリアルで生き生きとした描写を支えるのは、このような友人たちとの関係というか、そのような関係への指向性なのだと思う。