●テレビが映らなくなったのは壊れたのではく、地デジ対応のためにアパート全体がケーブルテレビに移行したためだったらしくて、自分でテレビのチャンネル設定をやり直したら映るようになった。今まで観られなかったチャンネルもいくつか見られるようになった。とはいえ、ほとんど通販番組ばかりやっているチャンネルなのだが。なかには、朝から晩までずっとナマで通販番組をやっているチャンネルがあって、逐一、今、放送中の商品の売れ行きが示され、「Lサイズ、残りわずかとなってまいりました、お急ぎ下さい」とか、「お客さん、大変申し訳ありません、只今Lサイズ、ご用意させていただいた分、完売になってしまいました、これ以降、Sサイズ、Mサイズのみのお取り扱いとなります」とか言っている。そして、それなりに高額な商品が次々と売れて行く。デパートとかの売り上げが伸びないはずだよな、と思う。どこから見始めても、どこで見終わってもよいような、単調な反復。それを、催眠にかかったように、だらだらずっと観てしまう。
一方、芸能人が出ていて、一見トーク番組風の流れから、一転して商品の紹介と販売へと移る展開のやつもあった。木佐彩子、秋野陽子、ピーターが出て、トークをしている。主に秋野陽子が喋り、他の二人はなんとなく相槌をうっている。無理なダイエットをするとリバウンドがくる。一ヶ月に一キロ程度やせることを目安にするといい。それだけで一年で12キロもおとせる。一キロやせるためには七千二百キロカロリー減らせばいい。1日に換算すると240キロカロリー、一食たった80キロカロリー分だけ我慢すればよい。ご飯にするとお茶碗一杯の半分、たまご一個分、ベーコンだと四分の一枚、マヨネーズだと…。ここで、「まるで歩くカロリー計算機みたいですね」とわざとらしく驚く木佐彩子。さらに「秋野さんはお野菜中心の食事なんですよね」とつづける。私は昔っから野菜食いなんです。前世は青虫でした。1日にこれくらい野菜を食べます。ここで、笊にこんもりと盛られた大量の野菜が出てくる。根菜類なんかもいいです、体をあたためてくれます。「でも、こんなに食べるの大変じゃないですか」。お料理でいろいろ工夫して食べまています。でも、根菜類などは煮たりするのが大変じゃないですか、だから私は圧力鍋を使ってるんです。「なるほど、圧力鍋ですか」。ここで一転、画面がかわり、圧力鍋の商品紹介がはじまる。
はー、なんだこれ、と、ひっくりかえりそうになった。いままでのどうでもいいトークは全部、ここに落とすための前振りだったのか、と。なんとまわりくどい。
●だらだらした無駄話は、あらかじめ目的も到着点も見えていないからこその豊かさがあるが、既に出ている結論の意図的な引き延ばしの「ためにする」まわりくどさ(要するに、オチの決まった前振りのめんどくささ)は、その対極にあるものだろう。その時、引き延ばしという行為の空虚さ、そして、まわりくどい行程の末に行き着いた到達点の行為に見合わない(意外な)下らなさは、距離をもって眺めることが出来れば確かに「笑える」ものではある(「圧力鍋かよ!」みたいな)。しかしここでの意図的な引き延ばしは、観客の欲望を特定の方向(特定の気分)へと誘導する罠であり、同時に、その誘導に「理論的な根拠」があるかのように思い込ませる(「この情報は信用出来る」というメタメッセージを添付する)効果をもつ。つまり、さわやかな、笑える胡散臭さではなく、鬱陶しい胡散臭さがある。
これと同じような、まわりくどい展開の仕方の小説とか批評文とかけっこうあるよな、と思った。一見、論理的展開にみえて、じつは「あらかじめ決まっている結論」へと人を誘導するために仕組まれた流れ(引き延ばし)でしかなく、一見、情報がたくさん詰まっているようでいて、そのすべてがあらかじめ「ある方向」へ向けられた、つじつま合わせや権威付けに奉仕されるようなものでしかない、というような。そこにも一定の説得力は生まれるが、そのような説得力に説得されないことこそが知性というものではないだろうか。