ジャック・ドワイヨン『ポネット』

●出かける前に鏡をみたら、今まで自分の顔では見たことのないような大きな隈が目の下にくっきり浮き出ていて(というか、垂れ下がっていて)、まるで自分の顔ではないみたいだった。なんか本当に「病気の人」みたいな顔で、確かにこの二日間かなり辛かったけど、たかだか風邪でここまで衰弱するのか、という感じで、ちょっと驚いた。そして、まるで自分の顔ではないような違和感のある自分の顔に、ちょっと笑えた。
ジャック・ドワイヨン『ポネット』をDVDで。この映画か公開された当時、ドワイヨンがこのような主題で映画をつくったことに対して強い抵抗感があった。しかし、今、観直してみると、これは『ラ・ピラート』なんかとまったくかわらない、まさしくドワイヨンの映画なのだと思った。ドワイヨンの登場人物の行動は、社会的な関係性や、一般的な慣習や常識、合理的な判断などでは決定されない。というか、それらのものはほとんど考慮されない。そしておそらく、過去や記憶も、表面的にしか作用しない。彼等を動かすのは、閉ざされた狭い範囲での(濃密な)関係性と、オプセッションとしての感情と、彼等の身体の有り様それ自身であろう。だから、その登場人物が大人だろうと子供だろうと大して変わりはしない。しかし、そのような人物が大人の姿(身体)である場合、観客はそれをなかなかすんなりとは受け入れられないだろう。だが、それが子供であれば、観客は割合すんなりと、そのような人物たちが行動する映画を受け入れる。(ましてやそれが、母親を亡くしたばかりの四歳の子供という、ほとんど普遍的にどのような人間の琴線にも触れるような設定であればなおのこと。)この映画では、四歳くらいの子供たちが、ドワイヨンの他の映画で大人たちがするのと全くかわらない感じで、お互いの身体に触り合おうとしたりする。ぼくは、子供にこんなことをさせてしまって良いのだろうかとヒヤヒヤしながら観ているのだが、これすら、愛らしい戯れのような感じで受け取られるのだろうか。(それにしてもこの映画では、人と人とが接する物理的な距離が基本的にすごく近い感じがする。)この映画の子供たちは、他のドワイヨンの映画に出て来る大人の俳優たちとほぼ同様に、ドワイヨンの演出にしっかりと沿うように動いている。それはたんに動きの段取りというだけでなく、感情的なものを押し出す強弱のコントロールみたいなことも含めて、そうなのだ。一体どうしたら、こんなことが可能になるのだろうか。