ジャック・ドワイヨン『イザベルの誘惑』

ジャック・ドワイヨン『イザベルの誘惑』をビデオで。ドワイヨンの映画はだいたい九十分前後で、決して長いものではないが、観客に「一息」で観ることを強要する。もっと長い映画であっても、流れがかわったり、緩んだりする、息継ぎのような場所が何度かあり、そこで体勢を立て直すというか、途中でちょっとダレても、気持ちを新鮮にして映画に向かい直すとか出来るものだし、ゴダールやデプレシャンの映画なんかはもともと切れ切れだから、途中から観始めて途中まで観るということも充分アリなのだけど、ドワイヨンの映画は、長く持続する一息としての九十分の映画だから、深く息を吸ったらその勢いで一息で観てしまわなければならず、途中で気を緩めることが出来ない感じがある。だいたい最初のショットから全速で入るから(この「牛」が凄い、最初の牛のショットだけで主演のジェック・ボナフェの人物像を完璧に語ってしまっているとさえ言える、『家族生活』の最初のショットも凄かった、のっけからいきなり背中に氷を押し付けられるような、あらゆるもののエッヂがキリキリと尖っていて突き刺さるような)、観る側も徐々に肩をあたためるというわけにもいかない。だからも観る前にそれなりに体勢を整えたり覚悟を決めたりする必要があり、ちょっと気が重くもなる。しかし、見始めれば、最初のカットからギュッと捕まれ、引きずられてゆく。でも、こちらの体調がイマイチだったり、作品がそれほど成功していなかったりすると、六十分とか七十分くらいのところで、緊張が(息が)ふいに途切れてしまったりもする。なにしろ一息の映画だから、一回息が切れると体勢を立て直すのが難しい。
ドワイヨンの映画の登場人物に、感情移入したり、その考えを理解し共有したりすることはほぼ不可能だ。彼や彼女が何故そのような事を口走るのか、何故そんな行動に出るのか、何故そんなことに執着しているのか、さっぱり分らない。だからこそ、彼や彼女が次にどんなことを口走り、どんな行動に出るのか予想することが出来ず、つまり展開が予想不能で、こいつは一体何をしでかすのか、この関係はどう転がって行くのか、と、観客は常にハラハラした緊張状態で画面を見守ることになる。ドワイヨンの登場人物は、ある感情や執着や衝動に全身を支配されていて、一歩引いて頭を冷やしたり、反省したりしない。彼等自身も、自分が何をしたいのか、次の瞬間に何をしでかしてしまうのか理解していないようにみえる。しかし、にもかかわらず、カメラや照明は、彼等の行動などお見通しであるかのように、そこにしかあり得ないと言う位置にいる。今まで激情に支配されていた人物が、そこでふいに冷静になって立ち止まることをあらかじめ知っていたかのように、その位置にピタッと照明が当たっていたりする。人物の動きをカメラが後から追うのではなく、全てが既に決まっていることで、それをカメラが知っていて先回りしているかのように見える。勿論そんなことは映画だから当然のことで、入念にリハーサルを繰り返して演技を練り上げつつ、カメラの動きや照明の位置が決められてゆくわけだろう。しかしドワイヨンの映画ではそれが妙に変な感じに思えるのだ。俳優たちの身体は、一瞬先も見えない緊迫した現在のただ中にあり、そこで動いているように感じられるのに、カメラがそれを捉える時、既に決まった型が反復的に演じられているかのように先回りするのだ。この妙な(器と内容物の)ズレというか、座りの悪さは、とても面白い。
『家族生活』は、どこか『都会のアリス』を思わせるところがあったのだが、『イザベルの誘惑』は、『カルメンという名の女』を連想させる。それはたんに、ジャック・ボナフェが出ていることからの連想に過ぎないのかも知れない。似ているかと言われれば全く似ていない映画なのだが、男女の関係の泥沼の具合や、全体としての暗いトーン、ジャック・ボナフェの陥る空回りの感じとかに、ある共通したものが感じられる。普通に考えれば、この話は、ジェーン・バーキンをめぐる、ドワイヨンとゲンズブールとの関係が反映されているということなのだろうが、それよりむしろ、『カルメンという名の女』のある部分と、深く響き合っていてるように思えた。
●古いビデオだから仕方がないけど、画質が悪かった。リュプチャンスキーによる撮影はとても大胆で、映画の多くのシーンがすごく少ない光りの量で撮影されていて、暗い中に、僅かな光りで人物が浮かび上がる感じだったし、明るい、昼間の屋外のシーンでも、異様にコントラストがキツくて、暗い部分が(人物でさえ)ほとんど潰れている感じだった。ビデオの画質だと、この撮影の「大胆さ」や狙いは分るけど、それがどこまで「繊細」にやられているか、どういう感触をつくっているのかまでは、見てとることが出来なかった。