●随分と久しぶりに世田谷美術館へ行ったのだが、用賀の駅前の様子がすっかり変わっていて驚いた。本当に、駅前を再開発すると、どこも同じ風景になるのだなあと思って歩き出す。美術館まで十五分くらい歩くのだが、その道のりも「散歩道」風に整備されていて、歩いていてもちっとも面白くない景観になってしまっていて、うんざりする。砧公園は日曜のためか人がたくさん出てにぎわっていた。梅が七分から八分くらいに咲いていて、お花見みたいに花の下にシートを敷いて弁当を広げている人もけっこういた。でも、ポカポカと日は照っていたが、風は冷たく(風が吹くと枯れ葉がザーッと舞う)、それはさすがにまだ寒そうだった。世田谷美術館に行くために田園都市線に乗るたび、途中の二子玉川の駅から見える多摩川の河川敷を歩いてみたいといつも思っていて、でも帰りには疲れていたり既に暗くなっていたりして叶わないのだが、今日はちっちゃな展覧会を観ただけだったので、初めてそれが叶った。三時過ぎから暗くなるまで、ずんずん歩いた。あちこちで野球をやっていたり(少年野球の監督が怒鳴っていたり、草野球の大人が、連れて来た子供と野球そっちのけでじゃれ合ったりもしている)、犬がこれでもかというスピードで疾走していたり、カップルがまったりとしていたり、走ったり散歩したりしている人がいて、いろんな音や声があちこちの方向から散発的、断続的に聞こえてきて、どこまでも遠くまで視線が伸びていき、日がポカポカと照って、それが徐々に傾いてゆく、という日曜の午後ののどかな風景がつづいている。しかし同時に、こんなに広く平べったい平面がひろがっているなど自然にはあり得なくて、このあまりに広い平坦さには、人工的にブルドーザーとかでガーッと均したものだという荒んだ暴力的な感触が色濃く残ってもいる。空間のスケールのせいで、街中を歩く時よりも随分と早く、ずんずんと歩いてしまっているのに気付く。
●世田谷美術館には、企画展ではなく、「田園交響楽」という小規模なコレクション展(http://www.setagayaartmuseum.or.jp/exhibition/collection.html)を観に行った。熊谷守一の素描、師岡宏次の写真、山口薫の水彩が展示されている。(四月八日まで。)
熊谷守一は、やはりすごく上手いと思った。複雑で的確な動きを、いともたやすくやってしまうので、あたかも、それがとても簡単なことで、自分にもたやすく出来るのではないかと錯覚してしまうほどだ。しかし、同時に展示してある山口薫の絵の、ぎこちない感じの描線を観ると、自分がどちらかというとこっちに近いのだと思い知る。勿論、山口薫の線が悪いものだと言っているのではない。それは独自の繊細でやわらかい表情をもっている。しかし山口薫の線は、線が直接的に空間をたちあげたり、動かしたりすることはない。それはあくまで「表情」をかたちづくるものとしてあり、複数の線が引かれ、それが集積することである一定の「調子(トーン)」がかたちづくられるような絵だ。だからおそらく山口薫の絵には、調子としての色彩が必要で、線だけで描かれたものはどうしても弱い感じになる。そしてどうしても形態が甘い。(トーンが充分に練られれば、形態の甘さは問題ではなくなる。というか、形態の甘さとして見えていたものが、ある「表情」へと変化する。)熊谷守一は、線を直接、空間のなかに配置出来るというか、線によって直接、空間をたちあげ、リズムを刻み、動かすことが出来る。熊谷守一の絵が、「ボップでかわいい」というところに落とし込まれないのは、つまり「ポップ」となることにあくまで抗するのは、その線の持つ空間性による。平坦な紙の上に線を引くにも関わらず、まるで空間のなかで針金などで造形するように、線を置いてゆくことが出来る。しかしそれはあくまで二次元なので、三次元的な制約を受けない、別の空間を生成する。だから熊谷守一の引く線は決して「輪郭線」にはならないし、少ない数の線で充分に強いものをかたちづくることが出来る。(タブローにおいては、必ずしもそうとは限らないのだが、ここで展示されている作品に関しては、そう言える。)
ただ、ぼくにはどうしても鼻につく感じも拭えない。おそらく(晩年の)熊谷守一は、自分がどういうことをすれば「人が喜ぶ」のかよく知っていて、サービスとしてそれをやってみせる、というところがあったのではないだろうか。それば別に悪いことではないのだが、あまりにそれを上手くやるために、ぼくとしては、やや引いてしまう感じもある。
●今日の散歩(http://www008.upp.so-net.ne.jp/wildlife/sanpo070211.html)