2023/09/05

⚫︎『ヘカテ』(ダニエル・シュミット)がプライムビデオにあったので観た。初期のシュミットは、『ラ・パロマ』をDVDで持っていて、今でもたまに観る、そして『今宵かぎりは』と『デ・ジャ・ヴュ』はダビングしたVHSテープを持っていたので90年代に何度か観直している。でも『ヘカテ』はおそらく、80年代に映画館で観て以来だと思う。それにしては、いくつもの場面をけっこうしっかり憶えていた。

この映画は、シュミットによって作られた絵空事をただひたすら堪能するという映画だと思う。人生の真実や人間の本質が描かれるわけでもないし、世界の秘密が開示されてるのでもない。社会的な何かが告発されているわけでもない。一方的に男性視点の映画で、女の側から見れば、こんな男はただ怖いだけだし、ひたすら迷惑なクソ男でしかないだろう。そして、この映画に出てくるアフリカは、現実のアフリカとほとんど何の関係もないだろう。

(この映画を、女性の位置から、あるいは非ヨーロッパ、被植民地の立場から批判的にみることは可能だろうが、それをするのにもっと適当な映画は他にいくらでもあるだろう。)

だから、この映画に何かしらの真実が含まれているという見方こそが、この映画の価値を毀損することになるのではないか。ただひたすら絵空事として観ることが、この映画を最も高く評価するやり方だろう。そこに一片の真実さえも期待されないホラ話。嘘つきが嘘をつく、その様、その手つきそのものを楽しむ、あるいは、嘘つきが嘘を成立させる得るとして、その「嘘の成立」にのみ真実がある。この世界には、世界の実在とは別に「嘘」が存在し得る。

実際にアフリカのどこかなのか、あるいはまったく別の土地なのかわからないが、この世界のどこかに実際にある場所で撮影されたのだろうし、出演しているベルナール・ジロドーやローレン・ハットンは実在する人物であろう。この映画のテクスチャーを豊かにする、「土地の人々」として出演している大勢の人もまた、世界のどこかに実在した人たちだろう。実在する場所や人を、レナード・ベルタのカメラが切り取り、ダニエル・シュミットが加工することで、絵空事が立ち上がる。そこにはすでに真実はない。

絵空事でしかない時空間のテクスチャーをただただ味わう以外に、この映画について考えることがあるとすれば、この世界に嘘があるということはどういうことなのか、嘘というのはどのようにして存在し得るのか、あるいは、嘘の嘘としての価値とは何か、について考えることなのではないかと思った。それは、ユニコーンはどのようにして実在するのかと考えることに近いのではないか。