●ジョン・カサヴェテス『ラヴ・ストリームス』をビデオで。若い頃は、カサヴェテスはとにかくぶっ飛んでいて凄いという風に感じていたのだけど、今になってみると、そのようなぶっ飛んだ喧噪よりもむしろ、その裏側から滲み出て来るような、ずっしりとして、そして静かなさざ波のようでさえある、胃にもたれるように重たい感触の方が強く感じられて、こちらの方こそがカサヴェテスの映画にとって本当に重要な部分なのではないかと思うようになった。この感じは中年になってみないと分らないものなのかもしれない。
そもそも、初期の『アメリカの影』や『愛の奇跡』のような「主張」が強く出ているような映画を除いて、カサヴェテスはほとんどの場合、行き詰まった中年についての映画ばかりを、行き詰まってただ右往左往する中年の姿ばかりを撮っていたのだと、あらためて思うのだった。例えば、ユスターシュが青春の映画作家であるのとはまったく違って、あるいはニューシネマが失われた若さについてのノスタルジーであるのとはまったく違って、カサヴェテスの映画では若々しさがあらかじめ決定的に欠けているように思う。若々しさなどノスタルジーの対象としてすら存在せず、かといって、成熟に至る道筋もその形も与えられないまま、地図も道標もない空間へ裸で放り出された人々の行為ばかりが描かれる。カサヴェテスの場合、物語はほとんどどうでもよくて、ただ、そのような人たちが、彷徨い、もがき、周囲との摩擦を生み、酔っぱらい、苛立ち、どこかへ逃げ込もうとし、泣き言を言い、当たり散らし、ふと我に返る、そのような様そのものが問題なのだった。だから物語上の役割もどうでもよくて、この映画でジーナ・ローランズにアドバイスする精神科医もまた、彼女をどこか良い方向へ導き得るような「知っている主体」などではあり得ず、彼女と何らかわりのない行き詰まった中年の一人にしか見えない。だから、事態も物語も、どこにも転がってゆかず、進展もしないで、ただ「行き詰まり」のテンションが増減しつつ、持続される。
映画の最後に一人で残される、カサヴェテスが演じる成功した作家も、映画の始まった頃とまったく同じ位置に留まっているのだし、ふいに彼のもとを訪れ、ふいに去ってゆくその姉のジーナ・ローランズもまた、何かを解決してそこを去ったわけではない。(離婚した夫と娘との和解を「夢」で見た、というだけなのだから。)おそらく、『フェイシズ』以降のカサヴェテスは、ずっと同じ場所に留まりつづけ、同じ場所から何度も何度も繰り返し出発し直しては、同じことをしつつげてたのだと思う。その執拗な反復のなかでこそ、『ラヴ・ストリームス』のような(静けさまでもを含んだような)達成が生まれたのだろう。繰り返すがそれは、派手な喧噪に満ちた、痛々しく、ざらざらデコボコした表面的なテクスチャーの手触り以上に、その裏から微かに響いて来る、重たくて静かでさえある響きにおいて、素晴らしいのだと思う。
●しかし、カサヴェテスの最高傑作であると思われるこの作品が、スクリーンでの上映がないだけでなく、随分前に廃盤になったまま再ソフト化もされていない(と思う、多分)というのは、残念に思う。おそらく、権利関係とかがややこしいのだろうけど。