アルフォソン・キュアロン『トゥモロー・ワールド』

●アルフォソン・キュアロン『トゥモロー・ワールド』をDVDで。以下、ネタバレあり。この映画は悪口が言いづらい。とにかく、よくぞここまでやった、という努力と心意気に対して感動してしまって、それが作家に対する過度な同調を生み、作品そのものにどうしても心情的に下駄を履かせてしまいがちになる。これをスピルバーグがやったというのならば、まあ、スピルバーグならこれくらいはやるだろうと思えるので、クールな距離もとれるのだけど。終盤の戦闘シーン、軍隊とテロリストと難民たちとが三つどもえで戦う地域を主人公が赤ん坊を取り返すあの長いワンカットなど、それが映画の画面として充実しているから感動しているのか、ここまで無謀なことをよくもまあ本気で構想して実際にやってしまうものだなあ、という作家に対して感動しているのか分らなくなる。(勿論、後者だとしても、それはそれで充分に素晴らしいのだが。)そしてその感動が、でもこれって、「作品」としてはちょっと薄っぺら過ぎるんじゃないだろうか、という疑問を、勢いで押し流してしまう感じなのだった。
心情的に下駄を履かせてしまうところを差し引いて考えれば、これはヨーロッパ的な映画だと思える。(つまり不思議に非アメリカ的映画だということ。監督はメキシコ出身の人、原作者はイギリスの人らしいけど。現在、ヨーロッパの主要国で政治的に最もアメリカに近いイギリスが舞台だというところなどが、絶妙なのだ。)それは、ある程度以上の教育があり、お金もあるという社会的なクラスに属するヨーロッパ人(あるいはアメリカ人その他であってもヨーロッパ的な教養を持つ人)が、現在持っている「世界」に関する感覚を、割合に忠実に、そして安易にトレースしたような映画ではないか、という意味でた。
この映画に出て来る風景は、決して近未来のものではないだろう。それは九十年代以降、つまり冷戦終結以降のヨーロッパが実際に経験してきた数々の事柄が、その歴史性を剥奪されて(オーディオ・ヴィジュアル化された一覧表のように)フラットに横並びにされたものだと言える。だからおそらく、ヨーロッパに住む人々にとって、この映画の風景は日常的に見慣れたものとまでは言えないにしろ、決して空想的なものではなく、とにかく「憶え」のあることばかりのはずだ。(だからそれは『ブレード・ランナー』などでオリエンタリズムを介して示される、どこでもないどこかとしての未来=過去ではなく、凝縮された「現在(いま、ここ)」という感情を強く喚起するものだろう。)その風景は、ニュース映像や、九十年代以降のヨーロッパ映画などによって、非ヨーロッパ圏の人たちにも、有る程度はなじみがあるものばかりだろう。
この映画は、ここ二十年弱くらいのヨーロッパの歴史を、時間や因果関係を剥奪して「環境化」した世界を背景にして、物語がすすめられる。その物語もまた、ある程度教育とお金のあるヨーロッパ人にはデフォルトであるような感情がもとになっていると思われる。「世界は既に年老いてしまった」という感覚。ヨーロッパでは、このような感覚自体が既に長い歴史を持つだろう。この感覚は、九十年代終わりに日本にもあった「世界の終わり」という感覚とはまったく異なる、もっと深く、隅々まで染みこんだ、ニヒリスティックな感情として、多くの人を静かに浸していると思われる。(例えば、ネビル・シュートの『渚にて』のような終末もののもつ独自の成熟度と、日本の終末論的フィクションのもつ、子供じみた破壊性とを比べてみればそれは一目瞭然だろう。)「子供が生まれない世界」というのは、おそらくある種のヨーロッパ人(の気分)にとっては、それほどは突飛な発想ではないと思われる。極端なことを言えば、いつそうなってもおかしくはない、くらいの感覚が(勿論それはあくまで「気分」としての話だが)、ある一定以上の階層の人たちにはあるのではないだろうか。(そういえば日本にも『大いなる幻影』(黒沢清)という映画があった。)ミケランジェロピカソを収集する大物政治家の家のシーンなどは、あれこそが現在のヨーロッパだというリアルな感触があるのではないか。
つまりこの映画は、九十年代以降のヨーロッパの現実(を非歴史化し風景化したもの)を背景に、ヨーロッパ的なニヒリスティックな感情=気分をもとにした物語が語られるのだと思う。(だからこの映画は、スピルバーグというよりもむしろ、ゴダールアンゲロプロスクストリッツァといった作家の方に近い作品なのだと思う。この監督がスピルバーグ好きなことは間違いないだろうけど。)しかしだとしたらこの映画は、あまりにも視点が狭過ぎる上に、話のつくりが薄っぺら過ぎるとも感じる。二十年近くも子供が生まれなかった世界で、再び子供を身籠るのが、移民のアフリカ系の女性で、父親が誰かは分らないという女性であるなんていう設定からして、あまりにも「いかにも(安易)な発想」という感じだし、それから、「一人の子供」のために、あまりにもあっけなく、物語上で必要のなくなった人物から順番に、都合良く次々と死んでゆく、という展開にも、どうしても抵抗と単調さを感じる。
ただ、この監督は面白い監督だとは思う。テロリストのアジトから主人公たちが逃げ出すシーンで、何故かアジトの前の道が半端な下り坂になっていて、エンジンのかからない車が何とも中途半端なスピードで坂を下ってゆき、走って追いかけて来る追っ手たちとの間に、不思議に緩慢なサスペンスが生まれるところなど、とても面白いと思った。主人公の昔の恋人が殺されるシーンのような、誰でもが凄いと分る(そして思わず同調してしまう)ハッタリの効いた長回しだけでなく、こういうシーンがつくれるところが、面白い。
この映画の不思議な非アメリカ性は、「子供が生まれない」世界というリアリティがアメリカを舞台にしたのでは成り立ちにくいことからも来ているのだろう。(この映画が「子供が生まれなくなった」ことの合理的説明抜きで話をすすめられるのは舞台がイギリスだからで、もしアメリカを舞台にするとしたら、その原因を究明するような話にならざるを得ないのではないだろうか。)つまりこの映画の「狭さ」とは、あくまで教養とお金のあるヨーロッパ的な人物(その人物の属している階層)からの視点(気分)として世界が組み立てられているという点にあろう。(そこには、アメリカ的な成り上がり的金持ちも含まれない。)勿論、そのような世界を揺るがし亀裂を入れるものとして「風景(=難民)」が生々しくあるのだが、しかしそれは歴史と因果関係を奪われたイメージであって、終止、風景を越え出て来ることはない。それは(そのなかで身体が行動出来るような)現実としての風景というより、フラッシュバックのように現前する悪夢=記憶のようなものだと言えるのかも知れない。(それは現実的なものではないが、その現前はきわめて生々しく、しかも反復される現前を主体はコントロールできない、という意味で。)この映画の問題は、「狭さ」そのものにあるのではなく、むしろその「狭さ」が終盤にまで徹底されていないところにあるのかもしれない。つまり、終盤、主人公たちが自ら「風景」に混じり、そのなかに入って行く時に(風景が物語に取り込まれる時に)、その非歴史化された風景の薄さが露呈してしまうのだと思う。(そこを押し切るためにこそ、あのとんでもない長回しが必要だったのかもしれない。)