大江健三郎と伊丹十三

大江健三郎の『さようなら、私の本よ!』に、塙吾良の「ダンデライオン」(伊丹十三の『タンポポ』)をアメリカで観て、彼は詩人だと思った、ということを言う、中国系の女性(清清)が出てくるのだけど、あのエグい映画を観て「詩人」とか思うというのは、どういうセンスなのだろうかと、読んでいて思った。ぼくは伊丹十三の映画は『お葬式』と『タンポポ』しか観てないし、進んで観たいと思うような映画作家では決してないのだけど、『さようなら、私の本よ!』を読んだ勢いで(作中で言及されてもいる)『静かな生活』をDVDで観たのだが、これが拍子抜けするほどつまらない映画で驚いた。良いとか悪いとか言う前に「つまらない」という感じで、ぼくは決して好きではないけど、『お葬式』や『タンポポ』には確かに伊丹十三ならではの「才気」や「アク」のようなものが濃厚にあったし、それを高く評価する人がいるというのも、理解は出来る。だけど『静かな生活』を観ると、映画作家としての伊丹十三には、もはややりたい事などなにもなくて、ただ(プロダクションを維持する為だけに?)惰性で映画をつくりつづけているだけとしか思えないような、気の抜けた感じで、脚本の練り込みやシーンの作り方なども、淡白というよりも、投げやりとさえ見えるくらいだった。(イーヨーを演じる渡部篤郎がかなり「勉強」したのだろうということは感じられるけど。『さようなら、私の本よ!』のなかで言及されている、若い男性の女性に対する性的な暴力を、中年の男性が身代わりになり、その罪を被って自殺する、というシーンなど、ほとんど冗談のようないい加減な演出で、唖然とする。大江健三郎としては、自分の作品を原作としてこんないい加減な映画をつくるなんて、と、怒って当然の映画だと思うのだけど。)もし、この程度のことで観客が納得すると思っていたのだとしたら、伊丹十三は相当観客をナメていたとしか思えないのだが、おそらくそうではなくて、この時期の伊丹氏には、これ以上はどうすることも出来なかったのだろう、と感じられる。この「つまらなさ」からは、映画作家としての伊丹十三がそうとう行き詰まって、危機的な状況にあったことが伺われ、大江健三郎の小説に書かれている塙吾良の像などと重なり合って(作中の人物とそのモデルとなった実在の人物とをあまり混同し過ぎるのはよくないけど)、この「つまらなさ」は、不吉なと言うか、陰惨な感じさえする「つまらなさ」だと思えるのだった。