●アマゾンビデオの配信で『メッセージ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ)を観た。これはぼくには全然ダメだった。今のハリウッドは、元がどんな話でもハリウッドメソッドに合わせて話を組み替えなければ成立しないという変なドグマが出来てしまっているのだろうか(「攻殻」のつまらなさとかも、そうだけど)。そもそもこの物語で、科学者が異星人に出会うまでにたっぷりと三十分以上も引っ張る必要などあるのか。この監督が撮るのだとしたら、新しい『ブレードランナー』もダメなのではないかと思えてきた(以下、ネタバレしているので注意)。
ヘプタポッド(異星人)の「形」をもっとはっきり見せないと、彼らがなぜああいう言語(文字)をもつのか説得力がないとか(昔ながらの紋切り型の「火星人」みたいにしか見えない)、彼らの扱う「文字」にしても、あんなロールシャッハテストみたいな平面的なものではなく、もっと立体感のあるものでなければダメなのではないかとか、全体的にデザインやイメージが古くさいとか、悪口を言い出せば切りがないのだけど、この映画でもっともダメだと思うのは、理屈というか、論理的な筋道がちゃんと示されていないところだと思う。
そもそも原作(「あなたの人生の物語」)も、そんなにがちがちのロジックで攻めてくる話ではないのだけど、それでも話の筋道というものがある。ヘプタポットが、ある特定の身体の形態をもつからこそ前後左右に意味がなくなる(「前に進む」という概念がない)とか、だからこそ彼らの扱う文字では語順が問題とならず、あらゆる単語が重ね描きされて、重ねられたその単語たちの重ね方の関係、その回転の傾き、配置、相対的な大きさなどでその価値が決まるとか、ヘプタポットのもつ数学的思考では、我々の数学とは真逆に、微分法こそがもっとも単純で、幾何や代数の方が複雑で難解であるとか、一応そのくらいのざっくりした「理論的根拠」があった上で、「光は目的地までの最短(あるいは最長)のルートをたどる」(光は放出される前から到達点=目的地とそのすべての経路を既に知っているとしか思えない)という変分原理が持ち出されて、比喩として生かされ、そこではじめて、ヘプタポットたちにおいては、過去から未来に渡るあらゆる時間がすでに(空間を見渡すように)見えているのではないか、という仮説が成り立つ。
そして、そのような異星人との交流のなかで、彼らの文字を学ぶことを通して、主人公の女性科学者もまた、自分の一生が空間を見渡すように(前後という概念すらないのだから、「空間的」でさえないのだろうけど)みえるようになる。一生が既にすべて同時にみえているなかで、それでも、その一瞬、一瞬を大切に生きるという、ひとつの態度が生まれ、その感覚に対する感嘆が観客にも生じる、ということになるはず(ちなみに、この感じは大江健三郎の「茱萸の木の教え」という小説ととても似ている)。映画では省略されているが、原作では、主人公は、未だ生まれてもいない自分の娘が、将来、若くして事故死してしまうことを知っているし、その娘の父親と、はやい時期に離婚してしまう(夫婦生活はうまくいかない)ことも知っている。それでもなお、死んでしまうとわかっている娘を生み、育て、そして目の前にいる男性を「今」は愛する、ということになる。結果が分かっているということによって、この今の重要性が縮減されることはない、と。この物語において表現される「重要な感情(感触)」は、ここにこそあると思う。
しかし、映画では、これらのことが成り立つ途中の過程がほとんどすべてすっとばされて、謎の異星人とコンタクトしていると、なぜか知らぬ間に未来が見えるようになっていて、そして、その未来予測の能力おかげで、人類が異星人に一斉に攻撃を仕掛けるという最悪の事態になるという危機を、主人公は救うことができた、みたいな話になっている。なに、このご都合主義の話は、みたいなにしか感じられなかった。この話の流れの、(論理的にも、感情的にも)どこをどう納得していいのかよくわからなかった。