ちょっと必要があって、中上健次『奇蹟』を読んだ

●ちょっと必要があって、中上健次『奇蹟』を読んだ。陳腐な言い方ではあるが、やはり、圧倒される、と言うか、揺り動かされるような「読む」体験だった。「SPA」に出ていた福田和也坪内祐三の対談で、大江健三郎の『さようなら、私の本よ!』に触れていて、中上健次は「路地」をあっさりと消滅させたのに、大江氏は自らの根拠となる「四国の森」を温存していて、結局そこへ帰っていってしまう、ということが批判的に語られていたのだが、それは間違いで、路地は中上健次が自らの手で消滅させたのではなく、現実として「消滅してしまった」のであり、中上はそのことの意味をくり返し「言葉」によって語り直し、読み直そうとしていたのだと言うべきではないか。だから中上氏は、消滅してしまった路地にずっと(きわめて強く)捕われていたとも言えて、だからこそ、路地消滅以降の秋幸を描いた『地の果て 至上の時』や、世界中に拡散してある「路地的なもの」を拾い上げ、接続してゆく『日輪の翼』『讃歌』『異族』のような小説だけでなく、「語り」の力によって「路地」をまるで幽霊のように虚空に再現しようとした『千年の愉楽』『奇蹟』といったような作品も書かれたのだと思う。実際、路地消滅以降の作品で、その充実度において『奇蹟』は圧倒的であり、だから中上氏の資質は、(愛としてであれ、違和や憎悪としてであれ)路地的なものに寄り添うときに最も顕著に発揮されるということは間違い無いと思う。
●『路地へ』(青山真治)という映画で、中上健次が、路地が消滅してしまうことを知って、路地を記録しておくために撮っていた映像を観ることが出来る。青山監督は、中上氏が撮った路地の風景の映像を示すときに、その背後に坂本龍一による非情に美しくロマンチックな音楽をかけている。ぼくは最初に観た時このことに反発を感じたのだが、改めて見直してみると、これは正解なのかもしれないと思う。つまり、中上氏の撮ったフィルムそのものが、きわめて感傷的で甘ったるいとも言える視線によって撮られているのだ。中上健次は、決して、路地に生きて、路地を描いた作家ではなく、若くして上京し、東京で作家のなった後に、自らの故郷としての路地を再発見した作家であり、だから、それは自らが生活する(自分自身もその一部であるような)環境ではなく、自分自身がそこから生まれはしたものの、一旦そこから切り離されたもの、つまり中上氏本人の言葉を借りれば、何度読んでも読み尽くすことの出来ない「テキスト」として私から切断されてあるような場所だと言える。(何度読んでも汲み尽くせない、とは、何度も読むことを強いられてしまう、つまりそこに固着させられてしまっている、そこから逃れがたい、ということでもある。)だから、それが「愛おしい」かったり、それが「憎らしい」かったりする、その感情(つまりその「固着」そのもの)は切断された距離(断層)によって生まれるもので、その「土地(環境)」のただなかにいる者の視点ではない。その距離こそが、中上氏の撮るフィルムに、ノスタルジックな感傷をまとわりつかせるのだろう。それは、中上氏の「地」の部分に直に接しているのと同時に、その「地」自体が後から捏造されたもの(書き直され、書き加えられたもの)と区別がつかないということでもあろう。『奇蹟』では、路地の「朋輩」たちの、まさに「腹と腹とをすりあわせて」生きているようなホモソーシャルな環境(関係)が描かれているし、その環境は、オリュウノオバという母性的な語り手によって守られている。しかしそのような描かれた「環境」は、そしてその「環境」への愛しさや憎しみといった感情は、中上氏が何度も読み直そうとする実在する「環境(路地、あるいは紀州)」との「距離(断層)」によって生じるものだと言えるのではないか。
中上健次は、路地をあっさりと消滅させてしまったどころか、その消滅の後もなお(と言うか、消滅によってより一層)「路地」に固着させられている、と言うべきではないか。『奇蹟』では、消滅してしまった路地を虚空に浮かび上がらせるために、麻薬中毒で精神病院に入院しているトモノオジの幻覚に登場する(既に死んでしまっている)オリュウノオバによって物語が語り出されるかのような強引な力技が採用されている。『奇蹟』の語りは、複雑と言うよりも破綻しまくっていると言った方が適当だと思うのだが、しかしそれは、語りの整合性とか破綻などというものがほとんど何の意味もないかのように感じられるくらいの圧倒的な「語り」の沸き立ちによって、部分部分の充実とその流れによって成り立っているように思われ、その充実と強さを支えているのがまさに「路地(という環境)」への固着(愛と憎しみ)であり、そして、その固着は、環境との切断によって生じるものなのだ、と言えるように思える。
●『奇蹟』で最も揺さぶられるのはやはり、中上氏のオプセッションである自殺した兄(郁男)が、その人物自身の視点から描かれる「イクオ外伝」だろう。中上氏がはじめからイクオについて書くつもりだったのが、それともタイチについて書き連ねているうちに、これならイクオについても書けるという感触を得て大きく迂回したのかは分からないけど、それ以前までは、時空(虚実)の曖昧化と(書き割り的な)決まり文句の反復的うねりによる、ほとんど呪術的とも言える「語り」として進行してきた小説は、しっとりと落ち着き、内面的な記述や描写なども増えてくるという転調をみせる。中上氏としては、郁男を「秋幸もの」の人物として充分に描くのは困難で、しかし、「中本もの」の一登場人物(イクオ)としてのみ扱うのだけでは納得できないというなかで、その中間的な環境においてようやく描き得た、ということなのだろう。イクオはあくまで「高貴にして穢れた中本の血」をひく人物であり、歌舞音曲にうつつを抜かし、いつもまわりに女たちが群れているような架空の(劇的)人物であると同時に、自殺へと至る内面の動きが説得的に記述出来るような、内省的(近代的)な人物でもある。渡部直己が指摘しているように、このイクオと、イバラの留=浜村龍造の、作中での役割の変化(破綻)が、この小説が非情に複雑な複数の力の交錯によって成り立っていることを示していると思う。