●『奇蹟』における「路地」という環境のリアルなたちあがりを支えているのは、それを記憶し、語る人としてのオリュウノオバの存在であろう。登場人物たちの悲劇的な生や死を救う能力があるわけでは全くないオリュウノオバだが、しかしこの小説で焦点化される人物(タイチやイクオ)は、自分たちの悲劇をオバが知り、記憶していてくれること、そして、それを悲しんで涙してくれること(それは言い換えれば、自らがオバによって「作り出された人物」であるということでもある)、を意識している。もっと言えば、たんなるチンピラの卑小な生と死であるものが、(それがあくまで「卑小な」ものであることが否定されるわけではないことは重要だが)「高貴にして澱んだ血をもつ中本の一統」というきらびやかな装飾によってたいそうな悲劇とも重なるのは、オリュウノオバが彼らをそのように見、そのように記憶し、そのように語るからに過ぎない。「路地」という世界がオリュウノオバによって支えられているとするならば、既に死んでしまっているオリュウノオバを召還してまで、世界がそのようなものとして立ち上がることを欲している(必要としている)のは、かつては路地の三朋輩としてならしていながら、今ではすっかりアル中となって落ちぶれてしまったトモノオジだろう。つまり、『奇蹟』という小説世界は、かつての仲間は皆死んでしまった後に、しかもすっかり落ちぶれてしまって、生き残り、生き続けなければならない者の悲痛な感情によって「要請された」ものだと言える。お話としては、ほとんど通俗的なヤクザ物とかわらない『奇蹟』を支えている「語り」の強さは、それを必要としている者の、ほとんどがらんどうとなった身体=精神のなかで響いている絶望的に悲痛な響きの強さなのだと言える。(『奇蹟』という複雑なテキストの全てを「悲痛さ」へと収斂させてしまおうというのではないが、しかし、決して短くはないこの小説の、書かれ、そして読まれるという持続を支え、束ねる基本的な調子は、そこにあるように思う。)だからこの小説の世界は、たった一人取り残された者、状況(タイチやイクオの生と死)に対して十分に介入出来なかった(部外者でしかあり得なかった)者による、全てが「終わってしまった」後になって発生する、悔恨であり、ノスタルジーに染まった解釈であり、悲痛と悔恨によって生じたほとんど捏造ですらあるような「物語」なのだと思う。(このような磁場だからこそ、イクオの焦点化が可能になったのではないか。)中上健次が謳い上げているのは、「物語」ではなくて(勿論、物語への「批判」でもなくて)、むしろそれを必要とする「悲痛さ」の肯定なのだと思う。