クリント・イーストウッド『硫黄島からの手紙』

クリント・イーストウッド硫黄島からの手紙』をDVDで。これは、最近のイーストウッドの作品としては決して完璧なものではないだろう。というか、はっきりと「緩い」。特に前半は、どこに焦点があるのかよく分らないまま、冗長な描写がつづいている。イーストウッドの映画において、緩慢な導入部というのは珍しくはないし、それが魅力であったりもするのだが、この映画では、緩慢というのをこえて、破綻寸前にまで緩い感じが支配している。それでも、途中からは割合引き締まり、最後まで見れば、そこに強い説得力が生まれるのはさすがだと思う。(主に塹壕を舞台とする描写は素晴らしいと思う。)とはいえ、全体としてとても緩くて穴の多い映画であることはかわりがない。しかしそれは決して悪いことではないと思う。最近のイーストウッドの映画のあまりの厳しく引き締まった有り様は、それが半端ではなく凄いものであることは間違いないものの、どこか息苦しいというか、納得し難いものがあることをぼくは感じていたので(だから最近のイーストウッドを観ることはとても気が重くて、この映画も劇場へはついに足を運ばなかった)、むしろこの作品の穴の多さや緩さは、好ましいものに思われた。
この映画では、まず脚本の時点での詰めの甘さが強く感じられる。例えば、登場人物一人一人の人となりを、いちいち回想で説明するのはいくらなんでも酷いのではないか。渡辺謙や彼と対立する上級将校たちのキャラクターや対立の図式はあまりに紋切り型ではないか。それに「手紙」という主題が物語的に充分に機能しているとは言い難い。そしてさらに、おそらく元々英語で書かれたと思われるダイアローグを日本語に移す作業の詰めも、いまひとつのように思われた。例えば、渡辺謙伊原剛志が最初に出会う場面などは、アメリカの俳優たちのやり取りをそのまま翻訳したもののようにみえる。日本の軍人たちの会話でそんなアメリカンジョーグを言うのか、みたいな。(この二人が「国際派」だったとしたって。)これは、外国語を話す俳優を監督が演出することの難しさに関係するのだろう。例えイーストウッドといえども自分が理解出来ない言語を話す俳優を使うのは困難で、この映画では俳優たちの演技に対する判断が、いまひとつ厳密に、シビアに出来切れていないのではないかという感じがする。一人一人の俳優は決して悪くはないと思う(中村獅童を除いては)のだけど、それぞれの俳優たちの演技の質の調整というレベルでの把握が、いまひとつシビアではないので、場面が散漫になる感じがところどころに感じられた。この映画でのイーストウッドははじめから、どうせ完璧には把握できないのだから、全体として緩く掴んでおいて、ポイントだけを引き締めれば良いという感じで臨んでいるのかもしれない。
(ハリウッド映画というのは、アメリカ人でなくとも当然のように英語で話すというのが当たり前の環境なので、この映画でも、日本の軍人に英語で話させてもよかったはずだし、その方が監督としてずっとやり易いはずなのだが、そうはしないところにイーストウッドの「フェアさ」が感じられる。イーストウッドの映画において、「フェア」であることは、時に美学的な要素よりも優先される強い原理として働いている。とはいえ、この映画は企画の時点からあきらかに半ば「日本人」へ向けてつくられたもので、だからはじめから「英語」という選択は無理だったということなのかもしれないけど。この映画が「英語映画」としてつくられたしまうと、『父親たちの星条旗』と二部作である意味もなくなってしまうかもしれない。つまりこの映画はハリウッド映画ではなくて、アメリカ人の監督が、日本人の俳優を使って、日本の話を撮る、という映画であることが重要なのであって、この映画の「緩さ」がそこから必然的に出て来たものであるのならば、その「緩さ」はそれ自体で積極的な意味をもつだろう。)
この映画で特に素晴らしいのは二宮和也だと思う。二宮和也は、どうみても現代の若者にしか見えないし、その存在も演技も、常にどこか「甘い」感じがつきまとう。しかしその「甘さ」こそが、この映画にとって何よりも貴重なものであるようにぼくには思われた。この主人公が紋切り型であることから逃れ、説得力を得ているのは、絶望的な状況にあっても、常に「甘く」て場違いの感じを纏ってる(完全に追い込まれ切ってはいない余裕のようなものを纏わせている)二宮和也の演技や存在によってなのだと思う。この「甘さ」は、この映画の有り様そのものを表現するとさえ言えるのではないだろうか。