矢崎仁司『ストロベリーショートケイクス』

矢崎仁司ストロベリーショートケイクス』をDVDで観た。この映画にイラストレーターの役で出ている人(岩瀬塔子)は原作者の魚喃キリコだという話があって、それが本当なのかどうかは分らないけど、どちらにしろこの役の人が「俳優」ではなく、「実物」であることは間違いがないように思われた。「実物」というのは、魚喃キリコの「実物」というのではなく、何かしらアート的な技術を売って、フリーとして、個人事業主として生計を立てている人(「個人」として「社会」に晒されているような人)だということが、おそらく間違いないだろうと思われるということだ。そのような人に特有の、自由な感じ、荒んだ感じ、孤独な感じが、演技や物語というレベルではなく、身体的なレベルで染み付いていることが見てとれるように感じられたからだ。映画の冒頭で、四人の主要な登場人物が次々と示される時、この人物にだけあきらかに違和感があり、それは、この人だけは「芸能人」ではないだろう、という感じでもある。最初、それは単純に、カメラの前に立つことに慣れていなくて、演技する時にどこか自意識を処理し切れていない中途半端な感じにも見える。しかしこの違和感は、映画が進行してゆくにしたがって徐々に、この映画で最も強いリアリティへと育ってゆく。でもそれは、「実物」であることのリアリティと拮抗出来るほどの強さをもった、演技として、虚構として、あるいは映画としてのリアリティを、この映画が持つに至っていないということだ。辛うじて、池脇千鶴が演じる人物のみが、ある一定の密度をつくりだしているかもしれない。イラストレーター役の女性が、演じているというよりあくまで「実際にそのような人」として画面に写っているのに対して、他の人は、デリヘル嬢を(形として)演じているのだし、ごく普通のOLを(形として)演じている。そしてそこで、「演じている」ことによってしか出てこないような何かしらの「強さ」を獲得するまで、至っていないように感じられた。(それは「俳優」のせいというだけでは勿論なく、なにより演出のせいだろうし、原作も含めて、もともとの人物設定が甘いというか、紋切り型を出ていないということのせいだろう。)だからこの映画は、進行してゆくにしたがって、イラストレーターの女性のパートしか「見るところがない」という感じになっていってしまう。
この映画はおそらく、ひとつのショットやひとつのシーンの「映画」として、「演技」としての強さによって際立つような作品ではないのだと思う。だからもっと、それぞれの女性の日常的な行為やその反復の描写を、細かく、延々と見せるような、淡々とつづく長い映画にすれば面白くなったかも知れないと思った。それによって、いかにも形をなぞっているような紋切り型の人物像から脱せたのではないだろうか。