2021-02-09

ジャン・クロード・カリエールが亡くなったのか。赤坂大輔さんがツイッターにあげている、カリエールのこのインタビューはぼくもとても印象に残っている(84年の「イメージフォーラム」に載っていたもの。同じ号に、黒沢清『女子大生・恥ずかしゼミナール(仮)』の制作ノートの後編が載っている)。

https://twitter.com/daiakasaka/status/1359006994170978309

●録画しておいたことをすっかり忘れていた、正月に放映された『逃げるは恥だが役に立つ』のスペシャルをようやく観た。分かりやすい「大人のための啓蒙ドラマ」になっていた(ディスっているのではない)。とても勉強になる。ドラマとしての面白さを追求するというより、「これが常識となるべき」という、倫理的な基準点を探り出そうとすることに徹しているように思えた。その意味で、精密に構築されていると思った。

それぞれの登場人物は個というより類型であり(妊娠した女性の類型であったり、妊娠したパートナーと生活する男性の類型であったり、お一人様の男性(女性)の類型であったり、女性(男性)同性愛者の類型であったり、ホモソ的男性の類型であったりする)、それらは、様々にあり得る多様な立場を分かりやすく代表するものとしてドラマ内に配置され、それらの人々の間で生まれるであろうと予想される諸問題への対応にかんして(異質な他者と共にあることにかんして)、基準となるような倫理的指針の在処が探られている。コロナ禍の描き方やラストの着地の仕方も含め、今、これをやるとするなら、なるほど、こうなるのが適切(個別的・独創的な解=作品というより、あくまで標準的で最適な解)なのだろう、と納得できる、という意味で常識的で良識的であるように思われた。

日本の地上波のテレビという世界のなかに、ひとつの「錨」のようなものとしてこれが置かれること、世界がこんなにぐちゃぐちゃで人の心が荒れているような時に、堂々と隅々まで折り目正しく常識的であろうとすることが貫かれることから、ほっとするような、ある種の安心感のようなものを得た。

(野木亜紀子作品としては『獣になれない私たち』の圧倒的な密度を好むが、『けもなれ』が上級編だとすると、『逃げ恥』は、やさしい初級編という感じ。)

(ただ、出てくる奴ら全員「勝ち組」じゃん、しょせん恵まれた人たちの話でしかなく、このドラマの登場人物たちのなかに自分に近い場所なんか見いだせねーわ、という反感はあり得るだろう。このドラマの美点は、堂々と「(正しさという)きれい事」に徹しているところにあると思うが、そのような「きれい事」は恵まれた人たちの間だからこそ成立し得ている、かのようにみえてしまうというところはあるかもしれない。)