2020-03-07

●「コタキ兄弟と四苦八苦」、第9話。ここへきてこのドラマの中心に「おやじ」がいることの意味が見えてきたように思う。この世界(この世界における多くの社会)が、男性中心的なものであることは間違いないだろう。男性中心的な社会において、「おやじ」は何重にも下駄を履かされた社会的優位性をもつ。だが、(勿論、未だ充分であるとはとても言えないとしても)男性中心的な上げ底にほころびや崩壊の兆しが至るところに見えてきていることも事実であろう。そのような社会的「上げ底」を外されたところにみえてくる、いわば「裸のおやじ」の姿を描き出そうという意図が、このドラマにはあるように思う。

裸のおやじといっても、彼らは脱社会的な存在(アウトロー)ではなく、男性中心的な社会のなかで、高いところに昇ったままはしごを外されるように、その社会的上げ底を外され、社会のなかで社会的な位置を失っているというような状態だ(彼らは、上げ底を外されてはいるが、上げ底されていた頃の残像が残ってもいる)。それは、社会的優位性を失っていると同時に、社会的な拘束も緩くなっているということでもある。

一時間という時間を千円で売るなんでも屋である「レンタルおやじ」とはそのような存在だと思われる。なんでも屋とは、なんでもできる人ではなく、特別なことはなにもできない人であり、富や特別な知や社会的な地位やコネクションをもたず、自分の頭で考え、自分の身一つでてきることしかできない人のことだ。身一つといっても既に若くはなく、詐欺師を追いかけて捕まえることすらできない(走ると息が切れる、四十肩で腕が上がらない)。上げ底を外された「おやじ」は、若い男性に対してたんに身体的に劣った人でしかない。「レンタルおやじ」は、上げ底の残像のなかでそのことを思い知る。そのような状態の「おやじ」になにができるのか、そのような状態の「おやじ」とはどういうものなのか、そのような状態で「おやじ」はどうあるべきなのか。

おそらく、そう遠くはない将来、おやじに対してなされている社会的上げ底の多くは(完全にではないとしても)瓦解するだろう。「コタキ兄弟と四苦八苦」は、そのような未来の「おやじ」の姿を描く、未来の「おやじ」の可能性と倫理についての物語ではないか。

(今回はわりとありがちな時事ネタなのかと思って観ていると、終盤にぐぐっと深くなり、ねじりも加えられ、さすがに一筋縄ではいかないと唸らせられた。そして、9話によって8話がまるまる伏線になっていたことを知る。)