2020-02-22

●「コタキ兄弟の四苦八苦」7話。ゴミ屋敷とセルフネグレクトの話。これはぼくにとってまったく他人事ではない。そして、セルフネグレクトの最初のきっかけは、しばしば他者からの圧迫にある。ここでは、近所の「ゴミ出しにうるさいおじさん」による圧力がきっかけとなっている。

看護師である門脇麦は、仕事の時間の関係で「ゴミ出しにうるさいおじさん」が指定する時間にゴミを出すことができない。ここで通常であれば、「ゴミ出しにうるさいおじさん」の目を(あるいはその「うるささ」そのものを)ある主のコミュニケーションスキルによってかいくぐることは可能だろうし、それが世間知というものだろう。しかし、そのような行為に対して過剰に抵抗を感じるというタイプの人がいる。その抵抗から生まれる「めんどくさい」という感情が行動を遅延させ、その遅延が少しずつ蓄積されていく。遅延が増えれば増えるほど、それをやらなければいけないという感情の負荷は大きくなり、それにともなって行動を起こすハードルも高くなる。

そして、ある時にそれは閾値をこえて、ああ、めんどくさいからもうどうでもいい、という無気力に転化する。ここまでくるとセルフネグレクトへの傾倒は確定し、ゴミ屋敷へ一直線であろう。ぼくは個人的に、この感じがすごく分かる。そうなる前にどうにかしろよ、というのは正論だが、「他者からの圧力」による負荷が感情的に出口を塞いでいるので、「めんどくさい」ことを後回しにすることを避けるのが極めて困難になっている。一度や二度のことならば、努力によってその困難を越えられるとしても、日常的な出来事(例えば「ゴミ出し」)は、繰り返し繰り返し、果てしなく何度でもやってくる。果てしなくやってくるものの流れのなかで一度でも躓くと、とたんにその躓きは連鎖して、みるみる蓄積されてしまう。どこかで腹をくくって、この蓄積をまとめて解消しないと、本当に崖から落ちるように一挙に何かが崩壊する。

(たとえばぼくはしばしば「メールの返事を返せない病」になってしまう。やらなければいけないことは分かっているし、やろうと思いさえすれば大して困難なことではない---五分もあればできる---と分かっているのに、どうしてもそれができない、というか、それをしようとすると別のことをしはじめてしまうことを止められない。多くの場合、意志的な努力によってそれを越えようとし、越えられてはいるが、それがどうしても越えられなくなってしまうエアポケットに落ちてしまう時期がしばしばある。)

習慣にすればいいと言うかもしれないが、ここで「他者からの圧迫」が感情的な蓋の役割をしてしまっていて、習慣化への方向を塞いでいることを忘れてはならない。「ゴミ出しなど誰にとってもめんどくさいものだ」というのは事実なので、それをちゃんとこなしている人であっても、文句や愚痴を言いつつも、辛いと思いつつも、なんとかこなしているにすぎない。だから、「誰にとっても大変だが、みんなそれをやっているのだ」という正論を言う人には、それが「どうしてもできない人」にとっての困難さは伝わらないかもしれない。「ゴミ出しの困難さ」を繰り返し繰り返し越えていくことに比べれば、ゴミ屋敷化した劣悪な住環境を受け入れること(自分をネグレクトすること)の方がずっと容易なことだし、快適なことなのだという人もいる。

これは、たんに悪い住環境への適応ではなく、自分自身に対する無関心化、積極的な行動を起こせなくなる無気力化と結びついてしまうということが重要だ。そこから生まれるのは、脱人間関係的、脱社会的な傾向への極端に強い傾倒だろう。これは、ことの原因が他者による圧迫にあること、そして、そうなりやすい人が他者との(コンフリクト的な)コミュニケーションに対して強い負荷を感じる傾向をもつ人であるということと関係していると思われる。そうでなければ、劣悪な環境への順応は、むしろどんな環境でも強く生きようとする「たくましさ」へとつながるだろう。

他者との関係(他者からの圧迫)をきっかけとして生じるセルフネグレクト的な行き詰まりの状況からの脱却きっかけとなるのもまた、別の「他者との関係」であるだろう。ドラマでも、門脇麦の「行き詰まり」からの脱却のきっかけをつくるのは、地元の男友達によるはたらきかけだ。ここで面白いのは、この男友達もまた、門脇麦にとって自分に対して圧迫をかけてくる「めんどくさい相手」の一人だという点だ。めんどくささにおいてはむしろ「ゴミ出しにうるさいおじさん」などよりもずっとめんどくさいかもしれない。

毒をもって毒を制す、かのように、ある種の「他者からの圧迫」によって生じた無気力化(セルフネグレクト)が、別の「他者からの圧迫」をきっかけにして、ほどける兆しをみせる。しかしまた、その先にあるものもきっと、別のとてもめんどくさいことなのだろう。ただ、問題なのはその「めんどくささ」の質ではないか。めんどくさいことそのものを面白がれるようなめんどくささもある。

(どういう「めんどくささ」が無理で、どういう「めんどくささ」なら面白がれるのかということは、人によって千差万別だと思う。人間関係のめんどくささなら巧みにこなせるが、数学の問題を解くめんどくささには耐えられないという人もいれば、その逆もいるだろう)

●ちょっと気になったこと。ドラマのなかで「植物のように生きたい」みたいな話がでてきた。植物は水と太陽があれば光合成で生きていけるから面倒な他者との関係に左右されずに自律的であるというニュアンスで。しかし、それは粗い比喩でしかなく、植物もまた自律的ではない。聞いた話で情報の出元まで確認してはいないのだが、近年、地球の気候変動の影響でミツバチの数が減ってきており、その絶滅の可能性までが危惧されているという。もしミツバチがいなくなってしまえば、多くの植物は受粉することができなくなって、存在できなくなってしまう(そうなったら人間も生きてはいけいなのだが)。植物もまた、ミツバチのような他者に依存しており、その影響下にある。

人間がミツバチ社会から学ぶべき「意志決定方法」とは?(Gigazine)

https://gigazine.net/news/20200112-honey-bees-argue/